夜半から強く雨が降っている。
止む気配もない。
毎週観る気力はないけれど、時代が時代だけに興味深い処は観るようにしている大河。
いよいよ佐藤義清(のりきよ)の出家が近い。
ドラマではそこまで描かれないが、ふと気になって調べてみれば、紀伊国は待賢門院の兄である徳大寺実能の知行国であり、佐藤家はその荘園である田仲庄の在地領主であったといった案配で待賢門院と義清との間につながりが確認できる。
断片化された記憶がドラマのなかでつながる有難さ。
国営放送ともなれば可哀そうなくらいに時代考証でイジメられるけれど、登場人物のセリフにあれこれ想像できる楽しみもあるのだから私はむしろ脚色を楽しみたい。
某知事が画が汚いと非難した理由は観光客が減るというのが理由だとされるけれど、それはむしろ自治体の仕事であって放送局の仕事ではない、お門違いも甚だしいことだと思われた。
それにしても確かに画面は汚い。
しかし、現実はもっと汚かったと推察する。
王家や摂関家の連中が屋敷の外の「人間」を人間として認識しなかったであろうことも納得できる思いすらする。
義清の出家はどのように描かれるのだろう。
私としては相変わらず分からないというのが実感。
齢50歳で出家した長明に比べて、23歳で出家というその若さ、潔さ、が余人の理解を拒んでいるように思われる。
だからこそ多くの伝説が生まれるのだろう、とも思われる。
身分違いの恋に破れて、そんな陳腐な理由で出家したという風に描いてほしくはない、という気持ちもあるけれど、それはそれで仕方のないところ。
それはともかく、
改めて吉松隆氏の音楽に職業音楽家としての風格を感じる。
私としては、常日頃、「職業音楽家にはない風格」をむしろ問題としたいと考えているわけだけれど、畢竟、職業音楽家の力とはその構成力にあると感じざるを得ない。
つまり、
誰しも鼻歌を歌うことはできる。
しかし、それを繋げて作品化する力というのは、なかなか素人の成し得るところではない。
そんなことを知らしめてくれる音楽である。
nogawan