おはようございます。
青い空をいいなと見上げてから机に向かう。
妄想。
日常生活にリアリティを感じる人もいる一方で、そこではなく小説や芸術作品のなかにこそリアリティを見る人もいる。
後者にとっては日常とは頽落した場所に過ぎない。
ほとんどの「大人は」バランスよく両者を行ったり来たりして楽しんでいる。
それが健全だと思う。
どちらかに天秤が傾いてしまうのは、個の持つ性、所謂個性であり業である。
個が無理なく自分のリアルを育める場に在ることが肝要だと思っている。
無理はいけないし無理強いはなおよろしくない。
増してや、どちらかの場から他の場を批判しても始まらない。
「いいとこ取り」がこの国の個性だったはず。
妄想その二。
伝統的な立場からは、作品とは余計をそぎ落とすことで成立する。
制作とはそぎ落としの作業に他ならない。
余計な音、余計な言葉をそぎ落として言って、その作品に必要な音、モノ、言葉だけが残る。
それができていない作品は自己陶酔プレイと称されても仕方ない。
その通りだと思う。
では、そぎ落としの作業を経ない、単なる垂れ流しはなんなのだろう。
ブログとはなんなのだろう。
ウェブカメラでのリアルタイム配信はなんなのだろう。
それは「作品」ではないのだけれど、リアリティとは何なのだろう。
昨日はおでかけ。
気晴らしでウェブカメラ(2000円弱)を購入。
早速、試し撮り。
おおっ、やはりD線の運弓が曲がっていた。
このところなんか嫌な感じがあったのである。
しかし、当然ながら音質までも考慮するなら更に工夫が必要なのだろう。
それは今後の話。
NOGAWAN