日記 | St.Augustinusのように語りたくて・・・・

St.Augustinusのように語りたくて・・・・

インターネットに持っているのは、様々な形で、これで7個目になってしまいました。時々、逸脱します!そんな時、「告白」を読み返したいと思います。余りに重いタイトル。少しでも、何かを語れればと思いました。

1 goo blogの記事”ニ・ュ。ハ」ア」ー。ソ」イ」ケ。ヒ”が自身の参照2位に入っている。別にdadaではない。種明かしすると、OCNさんの”Blog Cafe”からの変換が上手くいかなかったのだ。ただ、OCNさんのブログは廃止。同じgooのOCNさんからの引越しブログ“Sard_Cafe“ではMTに落とし成功しているので、“どうしても”という方はそちらを見て欲しい。ただし、残念ながら写真は越して来てない。

2 数学の変更のみ。goo/アメブロと併せて10日間ブログ更新なしだった。
写真は、11/22(土)東京・11/23(日)駒ヶ根・11/27(土)天竜峡・11/29(土)浜松。
東京は「詩と思想研究会」、駒ヶ根は教会の委員会、天竜峡は介護ボラ、浜松は「学と楽」。2週間、様々な場所に顔を出し、それなりに多忙だった訳だ。更に妹が週後半帰飯した所為もありバタバタしていて「角川俳句」への投稿を怠ってしまう。各旅行の詳細は省く。一言ずつだけ。
43

東京。今回特に、他の人の作品が力作揃い。何度でも読み返していろいろ自分のものにしないと。その他では、新宿マックで勉強が印象。駒ヶ根。強行日程になった。2019年に南信地区がどうなるか?ウルバン神父様のご容態も心配。“将来、教会は都会だけになる”もショッキング。天竜峡・上郷。ほぼ2年振りの介護ボランティア。ヘルパー2級を大分忘れている。帰り、隣接の喫茶店で珈琲を飲む。浜松。目的には間に合わず、結局献血とミスドで勉強。ただ、往復の飯田線鈍行列車での読書が楽しい。旅愁とは読書体験。
この間、読んだ本は、沢山になるので主要なものだけ。

“European Literature”(西脇順三郎)「万葉集(上)」「俳句鑑賞歳時記」(山本健吉)「医学部への物理」「数学問題精講」「ハイレベル理系数学」「数学‘14・10月号」「日本物理学会誌’14・11月号」“Growing up with Jazz”(Stokes)“King Solomon‘s Ring”(Lorenz)「天使のいる星で」(鈴木重子)「中国語で短編小説を読もう!」「一冊目の中国語」「簡明実用漢語課本」[行動経済学入門](真壁昭夫)「ドストエフスキー作家の日記(上)」「芭蕉入門」(幸田露伴)「詩の原理」(萩原朔太郎)「ヨブ記講演」(内村鑑三)「教皇ヨハネ・パウロ2世の詩」「万葉の秀歌」(松尾聡)「現代詩の鑑賞4」(明治書院)“Pomes Penyeach”(Joyce)「楊貴妃」(大野実之介)「聖性の詩人フランチェスコ」(ボナール)「テレジアの詩」(幼きイエスの聖テレジア)「文芸批評論」(T.S.エリオット)「現代世界アジア詩集」“Mrs.Dalloway”(Woolf)「応用エレクトロニクス」(霜田光一他)“mathematics:Frontiers & Perspectives”「エムペードクレス」(ヘルダーリン)「カフカ全集7・日記」「日本文学鑑賞辞典古典編」(吉田精一編)。

33
エンジニアだった頃の想い出。その7。
アーキテクチャ。ハードからOS、アプリケーションまで、コンピュータの設計に関わる各層の中で、一番面白いのがアーキテクチャだとは良く聞く。矢張り面白いんだろうなと思いながら、未だ実感出来ないでいる。結局、本物の専門家にはなれなかったのだと思う。

「アセンブラプログラミング詳説IBMシステム/360・370(上下)」(ストラブル)「コンピュータ・アーキテクチャの設計」(マイヤーズ)「コンピュータの構成と設計(ⅠⅡ)」(ヒル/ピーターソン)「第5世代コンピュータの計画・文化」(広瀬・渕)「TRONを創る」(坂村健)「コンピュータ・アーキテクチャ」(坂村健)「コンピュータ・アーキテクチャ」(へネシー&パターソン)“IBM Personal XT・AT・System/2 Technical References”(IBM)“Introduction to Computer Architecture”(Stone)、


38

周辺含めてリストしたが、一応一通り読んではいる。その中、例えば、坂村健氏の本では、第2章でアラン・ケイのアーキテクチャ、第3章はLispマシン、第4・5章非ノイマン型、第6章スーパーコンピュータ、第7・8章VLSIなどとなっており、「はじめに」には、(p.ⅳから)

“現在(‘84)重要と思われるトピックの多くは、80年代初頭までさかのぼって勉強すれば十分なものが多い。つまり、80年代初期から中期を根気よく勉強すれば、おのずと現代コンピュータの基礎を勉強したことになり、ひいては90年代のシステムを見通せるようになる。本書はそのような意味で80年代初期のコンピュータ・テクノロジーの整理を行ったものとも言える。”

とあるように‘80年代の雰囲気といったものを感じさせる。一方、へネシー&パターソンは、1990年刊。「序」には、(p.ⅰより)

“各クラス別の最も代表的なコンピュータを利用し、分析と比較のための基準を確立した。そのコンピュータとは、メインフレームのIBM360,ミニコンピュータのDEC VAX、マイクロコンピュータのIntel80x86である。この基準に従い、より単純なパイプライン・プロセッサ、あよび、並列プロセッサの将来を提示している。これらの新技術は、教育上有用でかつ実現性も高い、著者らが設計したプロセッサDLXタイプのマシンとして示されている。”


30

とあるが、“今後の方向”の章では、SIMD型・MIMD型コンピュータ、Sequent社のSymmetryマイクロプロセッサなどの紹介がある。付録には、彼らがその“生みの親”であるRISCアーキテクチャに関するサーベイも載っている。アラン・ケイ、Lispマシン、非ノイマン型、VLSI、VAX,80x86,RISCといった言葉が懐かしい。それらの全盛時代にごく些細ではあるが、関われたことは技術者冥利に尽きる。当時、ハード・ハードで、“出来る限りハードに置き換えて”という流れだった気がする。“OSの一定部分も何れハード化されるのでは?”と思っていたわたくしにとって、RICSは将に大きな驚きだった。Workstation。上に挙げた言葉一つ一つに、“当時ああだった、こうだった”の思いがある。

例えばLispマシン。推論の三段論法のマシンだが、そもそも、“p->q&p”=>“q”の“p->q”は、順序関係“p>q”と解釈出来なくもない。そこで、それをハードでやってしまえ!ダイオードを使えば出来る!と考え特許を出した。“水が低きに流れる様に推論するマシーン”。ナンセンスと思ってたけど、2~3年後、確かカーネギーメロン大学で、同じ様なことを考えたらしい。工業新聞だかに発表があった。ただし、膨大な数のルール順序関係をどう“配線”するかに独特の工夫を凝らしたらしい。詳細はその後聞き知ってないし、実用化されたとも聞かない。だから、その事を前の会社の課長に自慢げに話したが、そんなに威張れる話ではない。今は懐かしい思い出だというだけ。だから次回Lispマシン。

53

小保方さんの”stap細胞検証”が終了とか。前回の経過発表のとき、”発光細胞は見受けられる”に、”それだけでも世紀の発見では?”とブログに書いた。前回を受けて2点。1点目。”イモリの尻尾など再生する器官の細胞でも、stap性は見出されないのか?”2点目。”あるとする。あるとすると、再生しない細胞では発光現象だけとしたら、その違いは何なのか?”1点目で既に発生学を理解しない者の眉唾と思うが。「発生学」の本は持っているので、次回参照し尻尾再生メカニズムに関し掲載する予定。

マグダラのマリアについて。教会では7月22日を“マグダラのマリア”の記念日に定めています。関連して「毎日のミサの友」「毎日の福音」から抜粋します。なお、マグダラのマリアの取り成しを願う祈りを探したのですが、見つかりません。「マグダラのマリア様、・・・」と祈るか、叙唱の“聖人”「聖なる父、全能永遠の神、聖人を通して示されたあなたの栄光をたたえ、・・・」に従って祈ればいいと思います。

“キリストに従う人たちの一人で、キリストが十字架上で亡くなられたときそばに立ち、三日目の朝早く、復活したイエスと最初に出会った。マグダラのマリアへの崇敬は、特に十二世紀から西方教会に広まった。”
“マグダラのマリアは、「肉に従って」復活のイエスを見ようとしたとき、「イエスだとは分からなかった」。しかし、イエスの「マリア」という呼びかけで、彼女はすべてを理解する。彼女が深く「キリスト」と結ばれていたからである。”
“墓の外に立って泣いていたマグダラのマリアに復活した主が現れる。彼女は復活の喜びを最初に告げる者、使徒たちへの使徒となる。それは彼女のイエスに対するひたむきな愛があったから。”
“マリアにとってイエスは「わたしの主」、「わたしのいのち」でした。女性として信じ、愛し、嘆きに沈むマリアに、イエスは近づき、「マリア」と呼ばれます。イエスはわたしたち一人ひとりを、それぞれの状況、ありのままの状態においてお呼びになります。”

第一朗読は2コリンチャンス第5章。詩篇は第63章、福音朗読はヨハネによる第20章を見てください。もう一つの第一朗読・雅歌からのみ引用します。

“[おとめは歌う。]夜ごと、ふしどに恋いしたう人を求めても/求めても、見つかりません。/起き出して町をめぐり/通りや広場をめぐって/恋い慕う人を求めよう。//求めても、あの人は見つかりません。/わたしが町をめぐる夜警に見つかりました。「わたしの恋い慕う人を見かけましたか。」/彼らに分かれるとすぐに/恋い慕う人が見つかりました。”


82

4 去年3月に「詩と思想」新人投稿欄に投稿するも採られなかった詩のシリーズがあります。第2回を何回かに分けて掲載します。選考に落ちてますから一定のレベルには達してません。

“<冬の期待> あっ、あそこのビルは?雨も降り出した。このまま走り続けようかしら。それとも引き返す?どっちも同じって気づいた時にはもう天辺来てた。/(この稿未完)”

天辺とは実は江ノ島。カトリックの教会があります。そこから街を抜け丘へ登ると公園があります。何となく飯田天竜峡を彷彿とさせるので、そこに舞台を設えました。語り口は女性です。日夏先生すみません!

5 “Hamiltonの四次元数”に関し、同じ名前の章が、「数(下)」(エビングハウス他、シュプリンガー)のKoecherとRemmertによる第7章にある。そこからの紹介。名著。読む読まないに関係なく買って一家に一冊備えておくべき書。是非!p.220から。第2回。

“Hamiltonの企ては、最初は成功しない。彼は実数対の場合と同様、通常の規則が引き続き成り立つような-すなわち、彼は永続原理を置いた-3つ組の乗法を求めている。彼は、i^2=j^2=-1 のもとで α+βi+γj と置き、”可換であるように計算して“最も簡単な2乗の場合を考察する。 
(α+βi+γj)^2=α^2-β^2-γ^2
+2iαβ+2jαγ+2ijβγ
Cの場合のように、乗法の値に対する試金石は、積規則であり、これによれば、積の長さは長さの積と一致すべきとなっている(ここで、α+βi+γjはユークリッド的長さ√(α^2+β^2+γ^2)を持つ)上の式の右辺における1、i,jの係数の2乗の和は、計算すると、
(α^2-β^2-γ^2)^2+(2αβ)^2+(2αγ)^2
=(α^2+β^2+γ^2)^2
となる。そこでHamiltonは、ij=0と置けば間違いなく積規則が満たされることを確認している。だがこれは彼の気に入らない。そこで彼は、上の式の右辺には、2ijではなく、実は(!)ij+jiがあることに気づいたのである。これは、零とならなければならない。すななち、ij=-ji。こうして彼は可換律を犠牲にすることを余儀なくされたのだった。“

6 “順序さえ任意にありて空の青”
これも「何だかなあ」という句だが。最初「空の色」とした。

54
7 “1939:The principle of solidarity,also articulated in terms of ”friendship“ or ”social charity“,is a direct demand of human and Christian brotherhood.”
 (from “Catechism of the Catholic Church”)
 
8 “1939: Positive signs in the contemporary world are the growing awareness of the solidarity of the poor among themselves,their efforts to support one another,and their public demonstrations on the social scene which,without recourse to violence,present their own needs and rights in the face of the inefficiency or corruption of the public authorities.By virtue of her own evangelical duty the Church feels called to take her stand beside the poor,to discern the justice of their requests,and to help satisfy them,without losing sight of the good of groups in the context of the common good.”
(from ”The Companion of the Catechism of the Catholic Chruch“)
 

63

9 降誕節第1火曜日福音朗読より。ルカによる第10章から。

“「あなたがたの見ているものを見る目は幸いだ。言っておくが、多くの預言者や王たちは、あなたがたが見ているものを見たかったが、見ることができず、あなたがたが聞いているものを聞きたかったが、聞けなかったのである。」”
-(幼子のような信頼の心をもって主を迎えよう。)

†主のお恵みが。
†主に讃美と感謝。

2014年12月2日
                       乗倉寿明記す