日記 | St.Augustinusのように語りたくて・・・・

St.Augustinusのように語りたくて・・・・

インターネットに持っているのは、様々な形で、これで7個目になってしまいました。時々、逸脱します!そんな時、「告白」を読み返したいと思います。余りに重いタイトル。少しでも、何かを語れればと思いました。

1 goo blogの記事”ニ・ュ。ハ」ア」ー。ソ」イ」ケ。ヒ”が自身の参照2位に入っている。別にdadaではない。種明かしすると、OCNさんの”Blog Cafe”からの変換が上手くいかなかったのだ。OCNさん後継ブログでは成功したので、“どうしても”という方はそちらを見て欲しい。

2 数学の変更のみ。写真は、9/20(土)の東京、21(日)の名古屋。

3 木曜の晩、ちっぽけな詩一編を作り「詩と思想」新人投稿欄に送る。ここ2・3日掛かり切っていて、昨夜どうにか仕上げる。金曜は金曜で、午後上郷図書館。「教育の論点」(文藝春秋)「芸術の思想」(筑摩書房、伊丹氏の作品を読みたい)「コーチング」(落合)を借り、仕事関係他、「演技について」(オリビエ)「現代詩の鑑賞3」(明治書院)「現代詩手帖9月号」などを読む。何時ものことだが、現代詩手帖掲載の詩に甚く感動する。オリビエの「舞台恐怖症」にハラハラする。演出・教育・コーチングの括りで読み始めたが、純粋に文学として楽しむ。土曜は昼からマック上郷店へ。仕事関連他、“Poems and Exiles”(Joyce)「演技について」(オリビエ)「量子情報と進化の力学」(大矢雅則)「寄り道の多い数学」「謎解きガルシア=マルケス」(木村栄一)などを読む。一旦帰宅後、松川へ。伊藤神父様のミサ。飯田教会で午前1時迄祈って帰ってくる。昨日は雨。台風が酷そう。家で過ごす。上の挙げた本の他、「現代詩手帖」「詩と思想」など読まず溜めてたものを読む。「My Best地理」(学研)「光のイメジャリー」(上杉文世)「象徴主義の文学運動」(シモンズ)も読む。「聖女」(1~4)「そこをなんとか2」(1~3)をNHKOnDemandで一気視聴。土日に、小津安二郎記念蓼科映画祭に行けなかった。チケット迄買ってたのに経済的に無理。そこで、代わりに2本、刑事・民事、違いはあるが、事件・弁護士ドラマを見ることにする。しょせん商業ベースと思いつつ、ゾラかバルザックかと思いながら見る。“そう言えば、春先民法について読んでいたなあ”と思いつつ、「刑法」(村井敏邦)から引用。p.199、

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“第1章において、二つのことを検証するという課題を設定した。その第一は、犯罪と刑罰を定める主体が国家の一部の権力者でなく、多数の直接には権力を持たない一般民衆であるかということであり、その第二は、犯罪を摘発し処罰する側から摘発・処罰を受ける側への視点の転換が行われているかということである。”

次に、p.201から、

“日本の刑法はドイツ法系であるのに対して、刑事訴訟法は英米法系であるといわれる。”
“少し大ざっぱな見方だが、ドイツ法系はどちらかといえば演繹的な思考方法をとるのに対して、英米法系は帰納的は方法をとる。”
“このようにみてぅると、刑法と刑事訴訟法との乖離ということは、ドイツ法と英米法との違いというよりも、演繹的思考法と帰納的思考方法の違いといったほうがよいかもしれない。しかし、個別性を無視した一般化も、一般性を無視した個別化も、どちらも妥当でない。”

「民法入門」(川井健)を引用。p.ⅱ、p.1から、

“いうまでもなく、民法上の各制度は有機的に関連しあっている。所有者といい、契約といい、民法の条文ではバラバラに登場するが、ある紛争が生じてそれを解決するためにはこれらを結合させた基準を見つけなければならない。民法を学ぶうえでも、各制度を関連しあうものとして把握しておくことが肝要である。”

“人々が日常生活をしていくうえで紛争が生じたときに、それは法的にどのように解決されるであろうか。法を大きく分けると、第一に、公法がある。これは、国家と国民との関係および国家の機関相互の関係を定める法である。具体的には、国会法、地方自治法、租税にかかわる法などがある。これに対して、第二に、私法がある。これは、国民相互の関係を定める法である。その中には、民法、商法、労働法などが含まれる。それは、いわば国民と国民との間に紛争が生じたときに、これをどのように解決するかという基準を与える法であるが、その中で民法が一般法となっており、商法、労働法はその特別法である。一般法とういうのは、ごく一般の人々の間の紛争を解決する法であるが、商法、労働法はそれぞれ特有の分野について生じた紛争を解決する法である。”

時間があったら、憲法・外国法・法哲学含め法律学について読み返したい。

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マグダラのマリアについて。教会では7月22日がマグダラのマリアの記念日に定めています。関連して「毎日のミサの友」「毎日の福音」から抜粋します。マグダラのマリアの取り成しを願う祈りを探したのですが、見つかりません。ただ「マグダラのマリア様、・・・」と祈ればいいと思います。

“キリストに従う人たちの一人で、キリストが十字架上で亡くなられたときそばに立ち、三日目の朝早く、復活したイエスと最初に出会った。マグダラのマリアへの崇敬は、特に十二世紀から西方教会に広まった。”
“マグダラのマリアは、「肉に従って」復活のイエスを見ようとしたとき、「イエスだとは分からなかった」。しかし、イエスの「マリア」という呼びかけで、彼女はすべてを理解する。彼女が深く「キリスト」と結ばれていたからである。”
“墓の外に立って泣いていたマグダラのマリアに復活した主が現れる。彼女は復活の喜びを最初に告げる者、使徒たちへの使徒となる。それは彼女のイエスに対するひたむきな愛があったから。”
“マリアにとってイエスは「わたしの主」、「わたしのいのち」でした。女性として信じ、愛し、嘆きに沈むマリアに、イエスは近づき、「マリア」と呼ばれます。イエスはわたしたち一人ひとりを、それぞれの状況、ありのままの状態においてお呼びになります。”

第一朗読は2コリンチャンス第5章。詩篇は第63章、福音朗読はヨハネによる第20章を見てください。もう一つの第一朗読・雅歌からのみ引用します。

“[おとめは歌う。]夜ごと、ふしどに恋いしたう人を求めても/求めても、見つかりません。/起き出して町をめぐり/通りや広場をめぐって/恋い慕う人を求めよう。//求めても、あの人は見つかりません。/わたしが町をめぐる夜警に見つかりました。「わたしの恋い慕う人を見かけましたか。」/彼らに分かれるとすぐに/恋い慕う人が見つかりました。”

今日は、雨が上がったので、昼から壁打ちテニスと散歩。小一時間程。「百年の孤独を歩く」(田村さと子)を散歩がてら読む。今、自分の中で、ラテンアメリカ文学の季節。

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4 半年程前に「現代詩手帖」に投稿したけど採られることのなかった詩の紹介。6回目、多分。段々と書き足していきます。一定のレベルに達しない詩ではありますが・・・。

“「昼」 白い小さな指先から 零れ落ちる サラサラした細かい砂 アポロニウスの円筒形 破損した硝子 //振り子細工のように 時を刻んで来た その機械はもう鳴らない //何千もの部品からなる 精密なゼンマイ装置 淀みのない時を刻み 傷みの欠けた歴史を繰り返す 空間の歪み そして 抜けるように広い青空//補正しようにも 補正しようのない 鋭い悔恨 戦禍にも その村は焼け落ちず・・・ 空間が そして 後に時間が後退して 仄かな祈りが・・・//空に白雲が立ち籠め 木々の緑 その影は 日差しを遮り 小さなバルコニーには 混沌が形成されていた 空港に出て 半島を半時計周りに巡って また読み止しの本に戻った// 「ステファニーが フランスに旅をして お菓子屋になる為に パリで勉強する やがて 大人のする恋をした そして 振られ・・・」//お座なりに投げ出された鞄から 星が銀河のように溢れ出て 空間を限りない光で満たした//次第に遠のいて行く テールランプ 棒状に浮かぶ雲たち 庇には もう東の月が出ている 周到に準備された 文月のような それでもう 終末に近いことが分かる//しなければならなかったことを 後悔して 記憶に残る糸を 辿ってみる 階段を駆け上る//そして 過ぎ去った時間の中 人間は人魚であった 住み慣れた街を捨て 逸れた恋人が タクシーで テールランプを追うように 記憶の微かなうねりを そのままに捉える//人間は嘗て海にあった 朝焼けは意外と簡単で 独り下宿の六畳間で 立ち尽くしていたが 調べなき夕暮れに 東風が出てきた 珈琲を飲み 貿易風についいて 若干議論する//「必然」と染められた旗が 風に運ばれ「憮然」と翻る それが自然の真情だったのかと 轍にぬかるんで 夏の午後 身動きが取れなくなった//白い幽霊が 下北に出て 蒼い白鳥が 係累を払いながら 露に噎せ入って 水底に沈められたのは 何の象徴だったのか//水路を流れる 淡い鴇色の風景 結末は未だ知らない 春も未だ来ない 体育館から人が出て 五島の方へ旅立つ ぞろぞろと 黒子のあった辺りを結ぶ 嵌められた絵のような 水晶の球ばかり 一瞬のざわめき//(掲載未了)

追加分だけ見ても、粗い。推敲が足りない。一応シュール詩だが、2つの連の終わり“水底に沈められたのは 何の象徴だったのか“”一瞬のざわめき“が甘い。唐突。そこを何とかしたい。そういった箇所を埋めるのが詩作・推敲の中でも大きなウェートを占める。切れ味!


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5 From “Introduction to Quantum Computation and Informatios”(Hoi-Kwong Lo et.al.;World Scientific)の“Quantum Computaion with Nuclear Magnetic Resonance”(I.L.Chuang)より、p.316
“We shall use the fact that for σ±≡(σx±iσy)/2,e^(σz)σ±e^(-σz)=e^(±2ξ)σ±.Let the state of the system be |ψ(t)>,and define the rotating frame state |χ(t)>=e^(iωtσz/2)|ψ(t)>,such that the Schrodinger equation for the system,ih∂t|ψ(t)>=H|ψ(t)>、can be expressed as ih∂t|χ(t)>=δ[e^(-iωtz)+e^(iωt)}/2][{e^(iωt)σ+}+{e^(-iωt)σ-}]≒δ/2・σx|χ(t)> where the high frequency terms were dropped (the rotaing wave appoximation).This has the solution |χ(t)>=e^(iδtσx/2)|χ(0)> δt represents the integrated power of the applied resonant RF field.|χ(0)> is a two-component spinor,and the effect of e^(iωtσz/2) is just a rotation of the state about the x^ axis by the angle δt。
量子コンピュータの代表的な教科書からの第6回。“コンピューティングにハミルトンの四元数を使う”に関連し。

6 “朴散華落剥花さえ風に舞い”
自作俳句。少し古い。


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7 “1939:The principle of solidarity,also articulated in terms of ”friendship“ or ”social charity“,is a direct demand of human and Christian brotherhood.”
 (from “Catechism of the Catholic Church”)
 
8 “1939: These attitudes and “structures of sin” are only conquered -presupposing the help of divine grace-by a diametrically opposed attitude;a commitment to the good of one‘s heighbor with the readiness,in the gospel sense,to “lose oneself” for the sake of the other instead of exploiting him,and to “serve him” instead of oppressing him for one’s own advantage.
(from ”The Companion of the Catechism of the Catholic Chruch“)
 
9 年間第27月曜日福音朗読より。ルカによる第10章から。

“「「心を尽くし、精神を尽くし、力を尽くし、思いを尽くして、あたなの神である主を愛しなさい、また、隣人を自分のように愛しなさい」とあります。」イエスは言われた。「正しい答えだ。それを実行しなさい。そうすれば命が得られる。」・・・「旅をしていたサマリア人は、そばに来ると、その人を見て憐れに思い、近寄って傷に油とぶどう酒を注ぎ、包帯をして、自分のろばに乗せ、宿屋に連れて行って介抱した。そして、翌日になると、デナリオン銀貨二枚を取り出し、宿屋の主人に渡して言った。「この人を介抱してください。費用がもっとかかったら、帰りがけに払います。」さて、あなたはこの三人の中で、だれが追いはぎの襲われた人の隣人になったと思うか。」”
-(傷つき、道端に倒れ、誰も手を差し伸べてくれなかった私たちに手を差し伸べてくれたのは主イエス。だから、私たちも主に倣って善いサマリア人にならなければ。)

†主のお恵みが。
†主に讃美と感謝。

2014年10月6日
                       乗倉寿明記す