<意識>とは何だろうか(A-7) | 松野哲也の「がんは誰が治すのか」

松野哲也の「がんは誰が治すのか」

治癒のしくみと 脳の働き

 2) 私たちの大半は、自分が普通か平均以上に知能が高く、平均以上に公平であり、平均以下の偏見しかもたないと思っているという報告があります。いってみれば、ヒトは信じたいことを確認したがるのです。ですから、私は自覚しているので問題はありませんが、「バカ」と言われると怒り出します。

 これとは逆に、「自分は周囲の皆と同じだ」と信じたがるものだということを示す証拠もあります。これは周囲の大多数の人は、自分と同じ好みを持ち、自分と同じ判断をするはずだと思い込んでしまうことです。「総意誤認効果」と呼ばれます。

 ですから、自分の好きな食べ物をご馳走したり、自分の好きな物品をプレゼントしようとするのです。この総意誤認確認効果もまた、「人は自分の信じたいことを確認したがっている」ことの証拠と言えるでしょう。

 

 

 以上の「信じたいことを見だしてしまう」効果については、大きく分けて2つの説明があります。

1つは、「誰でも自分がすぐれている(まともである)という証拠を欲しがっている、はじめからそういう証拠だけを探し、それに反する証拠に出会っても、無視するか、すぐに忘れる」というもので、これは「動機論的説明」と名づけられます。

 他方、純粋に認知要因による説明も可能です。たとえば、周囲は本人の喜ぶようなことしか言わないので、はじめから得られた証拠のサンプルが偏っている、という説明。これによれば「自分は平均以上」という錯誤も、総意誤認効果も、ともにうまく説明できます。

 また対話や討論の場面では、失敗を(また成功もある程度)目の前にいる他人に帰しがちな傾向があると言うことも知られています。

 対話場面では、自分の表情や行動は自分には直接見えません。一方、他人の言動は直接見えて、目立っています。

 つまり、ここで認知論的と言っているのは、人は常に入手できるてがかり、特に目につきやすい手掛かりに原因を帰してしまいがちであるという見方もできるのではないでしょうか。

 

 認知心理学者は一般に、認知要因による解釈が可能なときには動機要因による解釈を避けようとするようです。あるいは、一般に漠然と動機要因によると考えられている現象を可能な限り認知要因に還元して解釈・説明しようとするようです。

 動機といった漠然としてつかみようのない複雑で高次の要因に訴えるよりは、手掛かりの有無やっ目立ちやすさといった、正体がはっきりしていて単純なもので説明する方が、「思惟の経済」では安価であると考えるからでしょうか。無駄な概念や必要以上に複雑な理論は省いた方が無難だと判断したためでしょうか。

 

 しかし、本来、人間にとって動機要因と認知要因は本来切り離せないものであるように私には思われます。

 

 

 ( 古代ギリシャの哲人は人間の知性を ロゴスとレンマに分けて考えました。一言で言うと、前者は論理的、後者は動機に支えられた直感的なものです。私たちの神経伝達物質を介する生化学的電子情報伝達系である脳神経系は通常はロゴス的に働きますが、未だレンマ的な知性がどのようなメカニズムに由来するのかは不明です(脳神経系をもたない粘菌はすばらしいc知性をそなえています)。コンピュータ、AI などのチューリング・マシーンは前者用に開発されたものです。2016年において当時の半導体の中を駆け巡る電子の速度は8万m/秒でした(人間の知覚神経では約10m/秒))。

 

 

 

 ジンクスや迷信を信じてしまうことに言及する場合にも、サンプルをとる際に生じるバイアスは気づきにくいはずです。

 動機の要因と認知の要因とは完全に解きほぐすことはできず、いつも入り混じった形で判断に作用するでしょう。

 

 これはAIやコンピュータの「認知」とヒトの認知を比べるときに、大きな意味をもちます。コンピュータには「動機」がないだけに、この問題はヒトをヒトたらしめている本質的な側面と言えるのではないでしょうか。