<意識>とは何だろうか (A-3) | 松野哲也の「がんは誰が治すのか」

松野哲也の「がんは誰が治すのか」

治癒のしくみと 脳の働き

 脳生理学者のベンジャミン・リベットは、自由意志の存在を証明する実験を行い、逆にそれを否定するような結果を得てしまいました。それはつぎのようなものです。

 

 人間が自由意志で腕を動かそうとしたときの脳の電位を計測する。すると動かそうと主観的に思ったそのときに先行すること0.5秒前に、すでにその腕を動かすための準備活動電位 (RP: Readiness Potential) が立ち上がった。

  したがって、「手を動かそう」という意識は、RP の事後的な報告に過ぎないのではないか。通常は、動かそうという意識がRPに先行していると思いたくなるが、この結果はその逆を示している。この結果は自由意志が存在しないことを示しているのだろうか?

  この実験は大きな議論を巻き起こしました。

 

 

  哲学者のジョン・エクルスは、リベットの研究が心脳二元論の経験的サポートになると考えて次のように熱狂した。

「この時間の逆行は、神経生理学的プロセスでは説明できないように思われる。おそらく、それは自己意識をもった心が採用した戦略なのだ・・・・・。逆行的な感覚経験が生じるのは、自己意識をもった心が時間にわずかな調整を行う、つまり、時間にトリックを加える能力を有しているからだ」。

 

 このようなリベット支持派は少なく、リベットには実験手順を含めて多くの批判が寄せられました。

 

 

 これに対してリベットは 「本物」の自由意志? と題して次のように締めくくりました。

 

 「根本的な問題は、非決定論に沿うような、自然物理法則に従わない本物の自由意志を人間はもっているのかだ。

 決定論も非決定論も証明されていない理論である。

 デイヴィッド・チャルマースが唱えたいわゆる「ハード・プロブレム」は、物理的(物質的)な神経細胞の活動からどのようにして意識的で主観的な経験が創発しうるのかを説明しようというものである。私が提案した、創発的で検証可能な、そして非物理的な意識の統一場理論は、見込みのある答えを与えている。

 人間の自由意志の経験を説明する理論(非決定論)は、そうした経験の妥当性を否定し、そうした経験を錯覚と見なして証拠を歪めてしまうような理論(決定論)よりも魅力的なものだということである。そのためその論文は、非決定的な理論よりも科学的に魅力のある仮説だと提案している。仮にその仮説と矛盾するように見える証拠が手に入るとしても、すくなくとも手に入るまでは、その選択肢を受け入れるべきである。こうした見方はすくなくとも、人間はオートマトンではなく本物の自由意志の可能性をもっているという心から湧き出る感じを受け入れて調停する方向性をわれわれに与え、さらにその見方は、意識的主体の責任についてのわれわれの感じ方や考え方を保持するだろう」。

 

 

 ジョン・サールのリベットへのさらなる応答

 

 「通常の意識経験は統一された意識の場の一部として生じるという私の主張は、リベットの言い分とは異なり、検証されるべき仮説ではなく、説明されるべきデータである。それは、人々はときに痛みを経験する、という主張と似ている。

 

  われわれがやろうとしているのは、自分たちの経験の存在を証明することではなく、経験の存在を説明することである。リベットがこの点を理解していないのは、彼が次のように考えているためだ。すなわち、通常の意識経験の統一された性格を認識する際に、われわれは「非物理的な何かの存在を措定している、とリベットが考えているためである。

  リベットによればわれわれは、「普通の」物理的・生物学的世界の一部ではない、独立した因果の力をもった奇妙なデカルト的事物を措定しているというのである。

 そのため、私が統一場を「検証可能な」仮説として提示していないという彼の不満は、誤解に基づいている。

 

 私が提案したのは、統一場の形をとってわれわれに実際に現れる意識経験をどのように脳がひき起こすのかを検証する方法である。

 

 私が知りたいのは、どのようにして脳過程が意識の場を生じさせるのか、そして、そうした経験はどのようにして脳において実現されるのかである。

 

  頭皮上電極による準備電位の記録を正確に解釈できるほど、われわれは意識された自発的な行為についての神経生物学を知らない。

 

  私とリベットの見解のもっとも重要な違い、および、リベットの誤解の主だった原因は、彼が「意識的機能は本質的に非物理学的なのだ」と述べたことに顕在化している。

 

 彼の考えはこうだ。統一された意識場が存在するということは、非物理的なものが存在するということである。また、自由意志が存在することは、「既知の物理法則を破る」ようにみえる特別な心の力が存在することである。物理法則は、「物理的世界との関係で確立されたもの」だが、「それによって意識的機能をうまく説明したり、そこにうまく適用できたりするものではないかもしれない」。そして、ハード・プロブレムは「非物理学的な」ものがどのようにして物理的な神経細胞の活動から創発しうるのかを示している。

 こうした彼の基本的な想定は、彼の神経科学者としての経験に反して、17世紀の哲学と目的論そのままである。

 実質的な問題と経験的なデータとを関係づけて明らかにするための第一歩は、リベットが受け入れているデカルト的な「心的」、「物理的」のカテゴリーを放棄することである」。

 

 

 

 

 問題に対するカント派のアプロ―チによれば、「ある時点におけるある人物の欲求、信念、刺激状況に関するいかなる言明の集合も、その人物がその時点で次に何を試みるか、企てるか、しようと決心するかを教える言明を、含意することはない」。

 要するに、多くの場合、人間の動機からその人の行為へはかなりの頻度で推論できるかもしれないが、決して絶対的な確実性をもってそうするのはできないようです。

 

 

 もし科学を、どのような法則が現に成り立っているかを発見することが重要であるような営みとみなすならば、そしてもし法則言明が、どのような種類の出来事が他のどのような種類の出来事によってひき起こされるかを教えてくれるものだとしたならば、いかなる法則の下での包摂によっても説明できない人間の行為が存在することになる。

 このことは、言葉ひとつのきわめて厳密な意味において、人間に関する科学が存在しえないことを意味するのではないでしょうか。

 

 

 目の前に広がる映像も、触った時の感触も、私たちの脳がつくったものです。

 それが ヴァーチャル・リアリティ( VR: 仮想現実世界 ) であったり、夢であったりする可能性はどこまでいっても否定できず、したがって、物理的世界、外界といったものの存在を、人間には証明できないのではないでしょうか。

 私たちは初期設定としてさまざまなヴァリエーションで感覚器官をもたされて生まれました。

 宇宙は、私たちを使ってこの世の真実にどこまで迫れるかといったVRゲームをしているのではないでしょうか。

 

 クラゲのように毎日1人で何も考えることなく、ボーっと漫然と漂っている死期を間近に控えた私には、自由意志など存在せず、ライプニッツが言ったように「欲求は必然化することなく人をある方向へと傾ける」ような気がします。

 もっともこれは行為を必然化するような条件下に私たちが存在している以外の場合に限られると思われますが。

 要するに何かをしようと思うことは無意識裡の範疇のことなのです。