ホテルマンは3年で辞めました【1.夢破れる】 | SHOW-ROOM(やなだ しょういちの部屋)

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 子供の頃に夢を聞かれ、ありきたりな職業を言うと「もっと大きな夢を見ろ!」と言われ、大人になって大きな夢を語れば「もっと現実を見ろ!」と、世の大人達は言う。


そんな事を言う大人って、無難な人生を歩んでいる人が多い。


無難な人生ということは、何も挑戦しなかった人生。


そりゃあ会社組織の中での多少の挑戦はあるだろうが、そんなのは狭い世界での小さなチャレンジに過ぎない。


本当の挑戦とは、たった独りで信念を持ち自分が掲げた夢に向かうこと。


だが、そうは言っても何もチャレンジすることなく平凡な人生が実はいちばん幸せなのかも知れない。


愛する人と結婚し子供を授かり温かい家庭を築いたなら、それはそれで人として最も正当な幸せ家族だと、俺は40代になってからそういう風に感じていたりする。


そんな俺の人生は常に夢を持ち続けたもの。


初めて掲げた夢はプロ野球選手だった。


それは青森の祖父が大のジャイアンツファンだった為、夏休みに会いに行くと毎晩ナイター中継にかじりつき、試合途中でテレビ中継が終われば応接間に移動し、電気も点けずにソファーに横になりながら独りラジオ中継を聴いていた姿を見ていたので、まだ小学生だった俺も自然と野球に興味を持ちジャイアンツのファンとなっていた。


しかも家が田園調布だった為、当時ジャイアンツが練習場にしていた多摩川グランドも、長嶋監督の家も近かったので尚更ファンになったのは自然の流れだったように、やがて自分もプロ野球選手を夢見るのもそんな環境下にいたからだろう。


小学校3年生の冬、何やら近所の大人達が騒がしい。


それは栄光の背番号3、長嶋選手が引退する日だったのである。


俺はその頃から本格的にプロ野球に興味を持ち、自らも野球少年となった。


同時に、毎週月曜日の15時からは一軍の選手が多摩川グランドで練習をしていることを知り、スケッチブックとサインペンを持って多摩川デビューしたのである。


その日のことは今でも鮮明に覚えていて、俺が初めて好きになった選手が入団したばかりの背番号20の定岡投手。


スケッチブックを持って行ったのも、定岡さんのサインが欲しいからだった。


長嶋監督が誕生して間もない12月、俺は寒空の下自転車を走らせ多摩川に向かった。


まだ早かったのかグランドには選手達の姿が無かったので、俺はとりあえず土手に座ってドキドキしながら独りその時を待っていた。


すると、左の方から誰かが歩いて来るのが視界に入った。


目をやると、な、な、なんと!ユニホーム姿の定岡さんがゆっくり土手を下りて来るではないか!


俺は緊張しながらも歩み寄って行き、「すいませーん、サインくださーい!」と。


すると定岡さんは静かに俺の手からサインペンを取って、スラスラとサインを書いてくれたのである。


この間、緊張していた俺は定岡さんの顔を見上げることが出来ず、胸のGIANTSの右下にある20をジッと見ていた。


それがちょうど俺の目の高さだったのを未だに覚えている。


こうして俺の多摩川デビューが始まり、6年生になるとお年玉で買ったカメラを持参しカメラ小僧となっていた。


あの頃の熱い想いは中学生になっても続き、それは甲子園も夢見る高校球児となったのだが、それは人生初の挫折を経験することとなり、そこからひょんなことがきっかけでホテルマンになろうと思ったのが高校2年生の時だった。






〜つづく〜