5  失踪・死相・疾走


────時間が、少しだけ彼らを追い越す。





光の矛先を明瞭な視界で見てとることなど不可能だった。眩しさだけが僕らを襲っていて、一瞬空間を無くしたとさえ思った。先ほどまで僕の右手を掴んでいた妻の感触がなくなっている。僕と同じ様にこの居心地の悪い光の中で、必死に目指すべきものでも探しているのだろうか。少なくともそれが僕であってほしいと思うのは、驕った考えだろうか。
「大丈夫か?」
声をかけるが返事はない。
妻の気配さえ感じない。
「おい」
自分の声の弱々しさに嘆いた。愛する者を命を懸けて守ると決めている男の吐き出す声ではない。
「おいってば」
もう一度声を発する。しかし返事はなかった。360度を眩いくらいの明るさに取り囲まれているのに、孤独を感じるのは結局のところ妻がいないことが僕にとっての暗闇だからなのだろうか。僕に唯一光を与えてくれるのは妻だけだと実感した。それにしても本当に妻の気配がない。忽然といなくなったかのようだ。
やがて光の光度が徐々に弱まると、僕のいた空間の小ささに驚いた。わずか6畳ほどしかない。
これを宇宙の様に永遠に感じていた自分が恥ずかしくさえ思った。
そして妻の姿がなかったことにまた驚いた。
神隠し、と言ったら誰もが納得するだろうか。
実はさ、光の中で妻が神隠しに遭っちゃってさ。
言葉の軽さに誰もが素通りすることだろう。冗談を言っていられる余裕など、いなくなったと分かってしまった一瞬だけであとはもうひたすら涙を流すだけだ。泣きそうな表情だと自分でもわかる。そこをグッと堪えられないのが、つまり僕で、妻はそんな僕の弱さを好きだといつか言っていた。妻は他の女の人と少しだけズレていた。

6畳ほどの空間に取り残された僕は、涙を無理やり止めようと天井を見上げた。いつか誰かが言っていた。
「うつむくまで気付きもしなかった。どうしてだろう?泣いていた…」と。
あいにく僕はそんなロマンチシズムを持ち合わせていなかった。
涙を止めるために天井を見上げる。そしてたぶん、そのうち歩き出す。
天井は一面真っ白に塗りつぶされていた。
中央に四角く縁取られているのを発見する。映画でよくあるような、エレベーターの天井にある脱出ルートを思い浮かべてしまった。妻はここから消えていったのか? 意味もなくそんな疑念が頭をよぎる。
それはない、と思い直す。
大体僕でさえその天井の、しかも四角い縁取りに手をかけることさえ不可能なのだ。あまりに高い位置にありすぎる。では一体妻はどこから消えたと言うのだ?
部屋を出ようとしてもう一度部屋全体を見直す。やはり何もなかった。白い壁と天井で埋め尽くされているだけだった。
腕時計に目をやり、時刻を確認する。ここに来てからすでに3時間が経過していた。その十分すぎるくらいの時の中で一体僕は何をしていたのだろう。手紙が指し示す目的にもたどり着けず、妻まで失った。まるで僕の人生そのままを現しているかのようだった。

深夜の映画館を出る。空が青みを帯びていた。
自動車に乗り込むとエンジンをかけた。隣にいるはずだった妻の姿を助手席に重ね合わせた。妻は笑顔で僕に笑いかけている。「大丈夫よ」と。
どんな状況に陥っても楽観視できる妻の性格は心配性な僕の性格をいつも和らげていた。
ハンドルを握ると対向車線に車を進め、走り出す。
僕は妻を失ったまま、捜索することもせず、警察にも届けないことを決めた。
明日から一人で探そうと思う。たぶん、そうでなければ見つからないような、そんな気がする。ふと、バックミラーに映った自分の顔を見やる。死相の漂う表情をしていた。心身共に疲れ切っているのだ。そう自分に言い聞かせて、自動車のスピードを上げた。



【続く】