1987年の秋、僕はNYのとあるバーで一人酒を飲んでいた。どうして一人でそんな場所にいたのかというと、正直いって詳しいことはすっかり忘れてしまった。ただ、覚えているのはその時飲んでいたバカルディが凄まじく美味しかったという事実と、僕は初めから最後まで一人っきりで飲んでいたわけではない、ということくらいだ。
店には一人で入った。そしてしばらく一人で飲んでいて、やがて誰かと会話をしながら飲み始めた。そう、記憶している。僕のほかに、確かに誰かが隣にいた。
その誰かは女で、日本人だった。歳は訊かなかったが、30前後に見えた。名は……名は覚えていない。彼女は名を名乗らなかったのだろうか。僕は彼女に教えたはずだ。奈央、と答えた。彼女は笑った。まるで女性のような名前だね、と。僕も一緒になって笑った。よく言われる、と。そして歳は32歳だと答え、NYには友人に会いに来ているのだと付け加えた。時刻は午後の8時で、店内にいた客は僕と彼女を含めて10人にも満たなかった。


時刻は午後の9時を回っている。
グラスにはもう丸みを帯びて、解けかけた氷しか入っていない。カウンターの向こう側にいるはずのマスターの姿がないので、僕は注文をすることも出来ないでいた。
「足りないの?」
彼女の微笑みはその丸みを帯びた氷のように冷たく、そして柔らかかった。
「うん。でも、マスターいないや」
「ここのマスター、Lって呼ばれているのだけど、時々こうして店内からいなくなっちゃうのよ」
「どうして?」
「分からないの。誰にも教えてくれないのよ」
「不思議な人だ」
「でも、店の主としては最低よ」
「かもしれない」
僕は再びグラスを回して、それからコースターの上にそっと置いた。
「良かったら、私の、飲む?」
突然の彼女からの提案に、僕は少し驚いた。NYで、それも雰囲気の良い半地下に佇むバーで、そして偶然出会った日本人の女から追加の注文が出来ないからという理由で自分のグラスの酒を一口飲むか、なんて提案されるとは思ってもみなかったのだ。
「大丈夫。そのうちマスターは戻ってくるだろうし、我慢だって出来る」
「そう」
その時の彼女の表情はわずかに寂しげでもあった。けれどもその瞳は、心のない人形のようにやはり冷たく、そして空虚だった。
「NYはどう?」
彼女は僕らの間にあった空気の変化に敏感に気がついたのか、話題を変えた。
「とても素晴らしいね。日本語で表現するには少しばかり堅苦しいかな。英語で、WONDERFULと言ったほうが相手に十分な伝わり方がするような気がするよ。言葉の響きとか、雰囲気とか、そういうニュアンスを含めてさ」
「なら良かった。歓迎するわ」
「ありがとう」
僕らはお互いの(僕は氷だけの)グラスを互いに掲げた。
「君は、もう長いことこっちに住んでいる?」
「どうかしら。こっちに住み始めて20年以上は経つけれど、それって長いのかしら」
「長いと思う」
僕は正直に答えた。
その瞬間、フワッと彼女の表情から優しさが消え去ったような気がした。
優しさ?
僕は僕自身がその言葉を彼女から感じていたことに驚いた。
話は続く。
「でも、そうね……長いのかもね。けど、NYにはいたくて住んでいたわけではないから」
「どういうこと?」
「交際している男性がいるの。彼、こっちの人で、それで彼と付き合っているうちに自然と20年以上も住むことになってしまった」
「彼とは、結婚をしているんだよね?」
まるでそうであってほしい、というような言い方で尋ねた。
しかし彼女は首を横に振り、それからこう付け加えた。
「彼とは結婚をしなかった。そして、そしてついさっき、別れてきた」
(少なくとも)10年以上(?)は彼と交際して(いたのだと思う。彼女の言葉のニュアンスから)そして別れた。格別、奇妙なことではないと思う。そのような関係性の男女は日本にだっている。(僕は日本人だから、やっぱり無意識に日本を基準に物事を考えてしまう。)
けれども、彼女のこの違和感は何なのだろう。僕は彼女という存在が、その淵を切り取られて剥がされてしまったかのように感じた。目の前にいるのに、今にでもさっといなくなってしまうことの出来る存在。それくらいの曖昧さを孕んでいた。
「今日ね、」彼女は言葉を継いだ。それは、また一段と別の雰囲気を孕んでいた。
「決めたの。今日でNYでの生活も終わり。終わりにしてしまおうって」
「いいんじゃないかな。新しく生まれ変わった気分になれる」
僕はよく考えてから、その言葉を発した。

*新しく生まれ変わった気分になれる?*

ありがとう。と彼女は答えた。それから、足元にあった自分のバッグをカウンターのテーブルに乱暴に置いた。乱暴ざるを得なかった。
「これはね、」
僕は息を呑んだ。その場の歪んだ空気に耐えることだけで精一杯だった。
「彼の部屋から盗んできたものなの」
バッグは黒の光沢が艶やかで、女が普段持ち運ぶにはあまりにも不似合いで、むしろ違和感のある大きさだった。まるで何かの運び屋のようだった。
「なんだと思う?」
僕は答えなかった。それはタブーだと言わんばかりに。
彼女は微笑んだ。さっきの氷の微笑だ。僕のグラスの中の氷は、蒸発して、その半分以上が溶けている。
「教えてあげる」
彼女の言葉を発する口元が妙に艶美で、見惚れてしまう。と同時に激しい不安にも駆られた。僕はここにいていいのか? 彼女の何の迷いもなく会話をしていていいのか?
彼女がバッグの中身から取り出したのは一丁の拳銃と、誰かの右腕、それと左脚だった。
テーブルにその3つを置いたとき、鈍い音が響き渡った。僕の心臓はバクバクと激しい鼓動を抑えきれずに、どんどんと激しさを増していく。
「これは?」
僕は、「これは?」と答えた。
僕は、さも現実を直視できていないと彼女に表示している。恐がっているのだ。
「3つとも本物よ。拳銃に、人間のある部分が二つ」
腕と脚は肌の色が黒かった。引き締まった筋肉と隆々とした雰囲気を漂わせている。恐らく、男性だ。
「もしかして、その彼氏かい?」
口から発せられる声の震えを必死に隠しながら、軽々しい口調で訊いてみた。まるで僕はこんなことくらいでは驚かないよ、と示すように。
「そうよ。やっぱりわかってくれた」
子供のようにはしゃぐ彼女の声が弾んだ。瞳に、ほんの少しだけ柔らかさが見えた。
「これから埋葬しに行くの。彼の好きだった場所に」
マスターはまだ姿を見せない。
僕は空のままのグラスを持て余した。
「あなた、恋人は?」
「いない」
「どれくらい?」
「もう、4、5年になると思う。でも一人のほうが楽で好きだよ」
「同感ね」
「どうして別れ、……消すことにしたの?」
「依存し合うのが嫌だったの」
「し合う? お互いだったの」
「そう。私も彼も、互いなしでは精神がままならなかった。そのくせ、孤独を求めてはその度に相手を傷つけあっていた。よく10年も続いたものだわ」
「でも、消すことはなかったんじゃないのかな」
この言葉は僕としてはとても勇気を出したと思う。なぜなら目の前にいるのは殺人者で僕はただの観光客だったから、いつ消されても不思議ではなかった。
「消さなかったら、私が消されていたわ」
「なるほど」

*消さなかったら、消されていた*

とてもよく分かる。僕も、そうだ。
彼女とはその後、再び小一時間ほど会話をした。マスターは僕らが会話に夢中になっている間にいつのまにか店内に姿を現していた。
僕は再びバカルディを頼んで、彼女はマティーニを頼んでいた。
僕らが交わす言葉はその場でしか意味のない、とりとめのないものばかりだったけれど、彼女と一緒にいた時間や空間や空気みたいなものは一生、思い出深いものになると思う。
最後に、別れ際、彼女に名前を訊いてみた。彼女は口元に人差し指を当てて、ウインクをしてみせた。そして幽霊のようになんの前触れもなく、僕の目の前からパッと消え去ってみせた。