吐き出す煙の先にいるのは一年前に別れた彼の姿だった。
距離にして30メートルはあると思う。
私がいるのは、彼のいる場所からずっと離れた─それは途方もなく離れているようにも感じる距離なのだけれど─彼のいる喫煙スペースよりもさらに小さな狭い喫煙所だ。
いつもの彼女─それは彼の所属している渉外部のアケミちゃんという名前の女の子らしい─と楽しげに話す彼の姿から、目が離せない。
一通りの仕事を終えると、彼は決まって居慣れた喫煙スペースでタバコを吸う。
一年前まではロビーの踊り場、隅っこにある小さな喫煙スペースにいたのに、場所が変わっていたなんて知らなかった。
知らない、ことが彼との距離がもうずいぶんと離れているように感じて、ひどくたまらない気持ちになった。
「長谷川さん」
背後から声がして、振り返った。
目の前に立っていたのは後輩の川田くんだった。
左手にレヴォのパッケージを持って、今にも煙草を取り出すところだった。
「先に来てたんなら誘ってくださいよ」
「一人で吸いたかったの」
そっけない態度で言っても、彼はいつもニコニコとしている。
「けど、僕は長谷川さんは間違ってないと思いますよ」
ふいに、まじめな声で、表情で、やさしい言葉をかけてくれる。
それが嬉しい反面、辛くもある。
別れた彼もそんな風にして私を慰めてくれた。そして私は彼に甘えた。その結果が、今の状況だ。
「僕、あの人のことはよく知りませんけど、長谷川さんは間違ったことなんてしてないと思います」
「うん。ありがとう」
灰を落とすと、そのまま煙草を潰した。
先端が黒ずんで、ひしゃげたような醜い様相になっている。
「先に行くね」
軽く肩を叩くと、白々しく煙が充満した室内から私は抜け出した。

「今度、一緒に飲みにいきませんか?」
川田くんの誘いを断る理由も見つからず、私は彼の行きつけだというbarについていった。
店内はオレンジ色の眩い照明に彩られていた。
「僕の行きつけなんです」
誇らしそうに自慢する川田くんの笑顔に私は一瞬ドキッとして、とっさに目の前のカウンター席に慌てて座った。
「テーブル席、向こうにありますよ?」
彼の気遣いに素直に対応する余裕なんかなくて、私は何もいわずにフルフルと首を左右に振った。
彼が隣に座るのと同時に、頭の上から聞きなれない声が聞こえた。
「どうも」
彼が親しげにあいさつをする。
視線の先にいたのは白髪まじりの紳士的な男の人だった。たぶんこの店のマスターだと思う。
「いらっしゃい」
小さく呟くマスターは笑顔を浮かべていた。

「僕は、絶対に女の人にあんなことはしない! 死んでも誓う!」
「わかったから」
川田くんは酒癖が悪い、と以前同期のマミから聞いたことがあった。
思い出してからはすでに時遅し。すっかり出来上がった彼は、いつにも増して幼かった。
「だって長谷川さん! 結婚式当日に逃げ出す新郎がどこにいますか! 挙句の果てに他に女なんか作りやがって、近々結婚ですよ! 結婚!」
別れた彼の噂は、同じ会社に勤めている以上どんなに嫌でも入ってくる。
もちろんそれは私のところにも例外なく。
けれども、会社を辞めようと思ったことなんて今のところ一度もなかった。
「許せない! 僕は彼を許さない!」
幸いなことに、彼との結婚を決めた後でも私は当分、この仕事を続けるつもりだったので結婚と同時に寿退社ということもなかった。
ただ、結婚式には私の上司や同僚も大勢来ていたから、結婚破棄が決まった後は言いようのない情けなさの中で仕事をする羽目になっていた。
もちろん、私は一切悪くなかった。
だからみんなむしろ私を元気づけようとさえしてくれていた。
嬉しかった。それは心底の気持ちだということが伝わっていたから。
けど、それでも直前になって新郎に逃げられた花嫁の気持ちを誰がわかるだろうか。
少なくとも、この会社には誰一人としていない。
私を捨てた彼はと言えば、私との結婚破棄が決まると、あっさりと別の女と結婚をした。
相手は別の会社で働く常務のお嬢さんらしい。
いわゆる逆玉だ。
誰も彼もが、彼のことを冷たく見放すと思いきや、なんのことはなかった。
いつも通り、彼は仲のいい同僚と気の小さい上司のいる部署で平穏に日々を送っていた。
私とのことがまるで夢であったかのように、醒めたら、はいおしまい。じゃあ現実に戻ろうか。
そんな具合に。
「聞いてます? 僕の話」
川田くんの恐い顔が目の前にあった。
次の瞬間、川田くんが私の上に覆いかぶさってきて、ベッドみたいな感触を背中に感じる。
彼の頭越しに見えた光景はさっきのbarではなくなっていた。
ここはどこだろう。と考えて、ああ、そうか。ホテルか、と直感的に感じるとることができた。
さっきのbarにいたことがまるで夢であるかのように、別れた彼との日々はきっと、私にとっても夢だったのかもしれない。
「はせがわさん~」
酒の香りを漂わせて、川田くんはいつのまにか寝息を立てていた。
私は彼とベッドの間を抜け出した。
部屋の中は小さなベッドランプが点いているだけの静かなものだった。
そこだけ時間が止まったように、私の存在がこの場所で停滞しているのは明白だった。
俯瞰した先にいる川田くんはいつのまにか私の視界からいなくなっていて、誰もいない薄明かりの部屋だけがそこには広がっていた。

                                            <了>