「でね、うちの上司がいきなり言ったの。ここは中国じゃないんだ! 数字が合わない箇所があったら、合うように調節してからこっちに渡すのが仕事ってもんだろ! って」
「課長、激昂ってわけだ」
「ん~、まあ激昂っていうほどでもないと思うけど。でも、やっぱり国外の人と仕事をするっていうのは予想以上に大変だなってのがよくわかるよ、ほんと」
「大変そう。あ~、社会人になりたくないよ」
「今の時期は大変だからね。まだ三年生だったっけ?」
「うん」
「そうだな。先輩として言わせてもらうと、早めに動いたほうがいいよ。それだけは言える」
「みんな同じことばっか言うからさ、もう聞き飽きたよ」
「ま、がんばんなさい」
彼女の運転する車が交差点を右折した。
僕らの前には友人の泰輔が50ccのバイクを運転している姿が見えた。
「泰輔もさ、いっつもぷらぷらしてるように見えるけど、あれでも結構頑張ってんだよね」
「知ってる」
「ほんとよ。冗談とか、彼氏だから良く目で見てるとかじゃない。本当に、毎日死ぬほど頑張ってるの」
「うん」
「あの子の家族はよく思ってないようだけど、それでも、私はあいつを信じてるの。あいつの才能を」
彼女はもしかしたら自分が車の運転をしている最中だということをすっかりと忘れてしまっているのかもしれない。前にいる泰輔だけをまっすぐと射抜くような目で見据えている。
視界を左右に走り去る車の流れが止まった。対面に位置する信号が赤から青へと変わろうとしていた。右折しようと泰輔が身体の向きを右に傾けると、ウインカーの光がゆるやかに線を描きながら夜の街にぺっとりと張りついた。
「直樹は? 楽しい? 学校」
「ん、まあまあね」
「泰輔から聞いたんだけどさ、友達いないって」
「ああ」
「ほんとなの?」
「冗談だよ。そんなに深刻そうな顔しないでよ」
「よかった」
「でも、人と関わることはやっぱりそれほど好きじゃないかな。というか、嫌いなんだと思う」
「嫌だよ。次会ったら、大学辞めてるとか、ニートになってるとかさ」
「ないよ。あるわけない」
「ならいいけど」彼女がハンドルを右に回しながら言った。
「ちょっと暑いね。ヒーター切ろうか」
僕は車内のヒーターのスイッチをオフにした。
彼女はウインドウを開け、ひんやりとした空気がすっと入り込んだ。
「泰輔と結婚するの?」
僕が訊くと、彼女が当たり前のように言った。
「するよ。当たり前じゃん」
「ふーん」
「直樹、彼女は?」
「まだ付き合ってるよ」
「なんだか、つまらなさそうな言い方ね」
「別に」
「なんかあった?」
「いや、このままダラダラと付き合いつづけてていいのかなって」
「なによ、急に」
「電話は月に2回程度で、デートするのは月に1回。それ以外は独り身となんら変わりない日常でさ、しかもそんな日常に満足してる自分がいる。むしろ、彼女と会うのなんてもっと少なくてもいいって思ってるくらいだ。これが恋人持ってるやつの言うことだと思う?」
彼女は何も言わなかった。
淡々とハンドルとアクセルに全神経を注いでいるようだった。
「わかんないけどさ」
しばらくしてから彼女が口を開いた。
僕の言葉が発せられてから、数分は経っていた。
「直樹と彼女が今、どんな感じなのかは知らないけどさ、私はそれでもいいんじゃない? って思う」
「ダラダラ付き合ってるんだよ?」
「うん。それでもいいと思うよ。男女の、恋人関係ってのにさ、直樹は難しく考えすぎなんだよ。てかそんな風に考える21歳の男の子なんて普通いないよ」
「そんなこと言われても」
「それよりもさ、もっと自分を大事にしたら?」
「自分を?」
彼女が前を向いたまま一つ首肯してから言った。
「もっと自分のしたいように好き勝手に生きなよ。疲れない? いっつも誰かに気を使いつづけててさ、思ったことも言えないなんて」
僕は何も言い返さなかった。
でも、まさか彼女が僕のことをそんな風に見ていたなんて思いもよらなかった。
「さっき泰輔と3人でいたときも直樹、なんだか私たちに遠慮してた。あんまり私のこと見なかったり、突然私たちから離れて一人でどっかに行っちゃったり」
「そんなことないよ」
「あったから言ってるの。もっと気軽に接してよ。今みたいにさ」
彼女の言うことがまったく外れているというわけでもなかった。ただ、彼女は僕の本当の気持ちをわかっていなかった。
「きゃっ!」
彼女が悲鳴を上げた。彼女から目線をはずし、彼女の視線の先を見やると、そこには車道をバイクで転ぶ泰輔の姿があった。
すぐさま車を左端に寄せ、一時停止をした。僕が呆然と見ていると、彼女が車から飛び出し泰輔のもとへと駆け寄った。
「泰輔!」
泰輔は車道を左の歩行者道路に向かって激しく転倒し、バイクと身体もろとも誰もいない開けた空間でうつ伏せになっていた。
「泰輔!」
彼女は泰輔の身体を揺すりながら、今にも泣きそうな声で再び名前を呼んだ。車の中でその光景を目にしていた僕は、やがてポケットから携帯電話を取り出し、119へと連絡を取った。
「美里! もう救急車来るから!」僕は車から飛び出すと美里にそう告げた。美里は泰輔に抱きつきながら嗚咽を上げている。泰輔は低く呻き声を上げながら苦しそうにしていた。
「泰輔…! 大丈夫? しっかりして! 目を開けて…!」
突然、ひんやりとした冬の空気が身体中に纏わりついた。
僕らの周りは赤や黄色のライトを照らす自動車で埋め尽くされていて、クラクションの音や、車のウインドウから顔を出す人々の好奇な視線、独り言のようなざわめきや遠くの方からは罵声にも似た声々が夜の街の中にいつまでもいつまでも轟いていた。
「美里! もう救急車来るからな! 大丈夫だからな!」
何度も何度も泰輔の名前を呼びつづける美里の背中に、僕は美里の名前を呼んでいた。怪我をしているのは泰輔のはずなのに、僕が叫んでいたのは美里の名前だった。
「泰輔!」
「美里!」
だんだんと僕の「美里!」と叫ぶ声が小さくなっていくのが手にとるようにわかった。理由なんてわからないまま、ただ声が小さくなっている。喉に透明な薄い膜が張られたみたいだった。やがて美里の耳に僕の声なんかは届いていないということを知った。
泰輔のそばでカラカラと乾いた音を鳴らすバイクのタイヤのように、それは徐々に徐々にか細くなっていった。
<了>
「課長、激昂ってわけだ」
「ん~、まあ激昂っていうほどでもないと思うけど。でも、やっぱり国外の人と仕事をするっていうのは予想以上に大変だなってのがよくわかるよ、ほんと」
「大変そう。あ~、社会人になりたくないよ」
「今の時期は大変だからね。まだ三年生だったっけ?」
「うん」
「そうだな。先輩として言わせてもらうと、早めに動いたほうがいいよ。それだけは言える」
「みんな同じことばっか言うからさ、もう聞き飽きたよ」
「ま、がんばんなさい」
彼女の運転する車が交差点を右折した。
僕らの前には友人の泰輔が50ccのバイクを運転している姿が見えた。
「泰輔もさ、いっつもぷらぷらしてるように見えるけど、あれでも結構頑張ってんだよね」
「知ってる」
「ほんとよ。冗談とか、彼氏だから良く目で見てるとかじゃない。本当に、毎日死ぬほど頑張ってるの」
「うん」
「あの子の家族はよく思ってないようだけど、それでも、私はあいつを信じてるの。あいつの才能を」
彼女はもしかしたら自分が車の運転をしている最中だということをすっかりと忘れてしまっているのかもしれない。前にいる泰輔だけをまっすぐと射抜くような目で見据えている。
視界を左右に走り去る車の流れが止まった。対面に位置する信号が赤から青へと変わろうとしていた。右折しようと泰輔が身体の向きを右に傾けると、ウインカーの光がゆるやかに線を描きながら夜の街にぺっとりと張りついた。
「直樹は? 楽しい? 学校」
「ん、まあまあね」
「泰輔から聞いたんだけどさ、友達いないって」
「ああ」
「ほんとなの?」
「冗談だよ。そんなに深刻そうな顔しないでよ」
「よかった」
「でも、人と関わることはやっぱりそれほど好きじゃないかな。というか、嫌いなんだと思う」
「嫌だよ。次会ったら、大学辞めてるとか、ニートになってるとかさ」
「ないよ。あるわけない」
「ならいいけど」彼女がハンドルを右に回しながら言った。
「ちょっと暑いね。ヒーター切ろうか」
僕は車内のヒーターのスイッチをオフにした。
彼女はウインドウを開け、ひんやりとした空気がすっと入り込んだ。
「泰輔と結婚するの?」
僕が訊くと、彼女が当たり前のように言った。
「するよ。当たり前じゃん」
「ふーん」
「直樹、彼女は?」
「まだ付き合ってるよ」
「なんだか、つまらなさそうな言い方ね」
「別に」
「なんかあった?」
「いや、このままダラダラと付き合いつづけてていいのかなって」
「なによ、急に」
「電話は月に2回程度で、デートするのは月に1回。それ以外は独り身となんら変わりない日常でさ、しかもそんな日常に満足してる自分がいる。むしろ、彼女と会うのなんてもっと少なくてもいいって思ってるくらいだ。これが恋人持ってるやつの言うことだと思う?」
彼女は何も言わなかった。
淡々とハンドルとアクセルに全神経を注いでいるようだった。
「わかんないけどさ」
しばらくしてから彼女が口を開いた。
僕の言葉が発せられてから、数分は経っていた。
「直樹と彼女が今、どんな感じなのかは知らないけどさ、私はそれでもいいんじゃない? って思う」
「ダラダラ付き合ってるんだよ?」
「うん。それでもいいと思うよ。男女の、恋人関係ってのにさ、直樹は難しく考えすぎなんだよ。てかそんな風に考える21歳の男の子なんて普通いないよ」
「そんなこと言われても」
「それよりもさ、もっと自分を大事にしたら?」
「自分を?」
彼女が前を向いたまま一つ首肯してから言った。
「もっと自分のしたいように好き勝手に生きなよ。疲れない? いっつも誰かに気を使いつづけててさ、思ったことも言えないなんて」
僕は何も言い返さなかった。
でも、まさか彼女が僕のことをそんな風に見ていたなんて思いもよらなかった。
「さっき泰輔と3人でいたときも直樹、なんだか私たちに遠慮してた。あんまり私のこと見なかったり、突然私たちから離れて一人でどっかに行っちゃったり」
「そんなことないよ」
「あったから言ってるの。もっと気軽に接してよ。今みたいにさ」
彼女の言うことがまったく外れているというわけでもなかった。ただ、彼女は僕の本当の気持ちをわかっていなかった。
「きゃっ!」
彼女が悲鳴を上げた。彼女から目線をはずし、彼女の視線の先を見やると、そこには車道をバイクで転ぶ泰輔の姿があった。
すぐさま車を左端に寄せ、一時停止をした。僕が呆然と見ていると、彼女が車から飛び出し泰輔のもとへと駆け寄った。
「泰輔!」
泰輔は車道を左の歩行者道路に向かって激しく転倒し、バイクと身体もろとも誰もいない開けた空間でうつ伏せになっていた。
「泰輔!」
彼女は泰輔の身体を揺すりながら、今にも泣きそうな声で再び名前を呼んだ。車の中でその光景を目にしていた僕は、やがてポケットから携帯電話を取り出し、119へと連絡を取った。
「美里! もう救急車来るから!」僕は車から飛び出すと美里にそう告げた。美里は泰輔に抱きつきながら嗚咽を上げている。泰輔は低く呻き声を上げながら苦しそうにしていた。
「泰輔…! 大丈夫? しっかりして! 目を開けて…!」
突然、ひんやりとした冬の空気が身体中に纏わりついた。
僕らの周りは赤や黄色のライトを照らす自動車で埋め尽くされていて、クラクションの音や、車のウインドウから顔を出す人々の好奇な視線、独り言のようなざわめきや遠くの方からは罵声にも似た声々が夜の街の中にいつまでもいつまでも轟いていた。
「美里! もう救急車来るからな! 大丈夫だからな!」
何度も何度も泰輔の名前を呼びつづける美里の背中に、僕は美里の名前を呼んでいた。怪我をしているのは泰輔のはずなのに、僕が叫んでいたのは美里の名前だった。
「泰輔!」
「美里!」
だんだんと僕の「美里!」と叫ぶ声が小さくなっていくのが手にとるようにわかった。理由なんてわからないまま、ただ声が小さくなっている。喉に透明な薄い膜が張られたみたいだった。やがて美里の耳に僕の声なんかは届いていないということを知った。
泰輔のそばでカラカラと乾いた音を鳴らすバイクのタイヤのように、それは徐々に徐々にか細くなっていった。
<了>