目を覚ましてから僕が何をやったのかということをあまり覚えていないときがある。
今回もそれだった。
僕は真夜中の2時過ぎに目を覚まし、キッチンへと向かうと、それから何をしたのかということを思い出せなくなっている。キッチンまで行ったということはわかっているのに、それ以降、僕が何をしたのかということが、さっぱり思い出せない。
憂鬱になる。
その晩の次の日、つまり目を覚ました時点から8時間後には、僕は彼女の実家へと出向き、恐らくは厳しい和室へと通され、隣にいる彼女と一度、目を合わせてから、テーブルの前でこれまた厳しい顔つきの彼女の父親に、「娘さんをください」と言っていたはずだからだ。
言っていたはずだから、というのは、その彼女との結婚の許しを得るためだったはずの日は昨日のことで、僕が目を覚ましてキッチンへと行ってから記憶がなくなったという夜中の次の日だったはずだからだ。
ものの見事に、僕が敗れた。
彼女の父親は、僕を一瞥するなり、「帰れ」と一言だけ言って、自分の書斎へと行ってしまった。それから5時間ほど待っていたけれど、結局彼女の父親が再び僕らのもとへと戻ってくることはなく、やむなく、「また、日をあらためたら?」という彼女の母親の助言により、僕らはその家をあとにした。
アパートへの帰り道で彼女は必死に僕を元気づけようとしていた。
僕はそれほどまで落ち込んだ表情をしていたのだろうか。
僕自身、きっと彼女が思っているほど落ち込んではいなかったはずだった。
なぜなら、僕は彼女との結婚をそれほどまでに望んではいなかったからだ。
僕が望んでいたのは、彼女との、つまり恋人としての彼女との現在のゆるやかな関係だった。
妻としての彼女を望んでいたわけではない。
もちろん、妻、という響きも悪くはないと思っていた。
彼女が僕の妻だったら、ということを想像したこともある。
けれど、その想像の中で、彼女と僕の関係は決してイーブンなものではなかった。
彼女は僕を支配し、僕は自由を奪われ、彼女はやがて他の男と恋に落ち、僕らは離婚しないまま、ずっとずっと仮面夫婦を演じる生活が続いていった。
僕には愛人と呼べる存在はできなかった。
彼女は年下の若い男との激しいセックスを好んでいて、僕のようなさえない男とのセックスには嫌気がさしていたのだろう。
やがて、彼女はその男を僕らのマンションへと住まわせた。
僕は何も言えなかった。
彼女は僕に何も言わず、僕の顔を見ても、平気な顔をしていた。
僕らは夫婦としてのしごく当然な生活を送っていた。
朝に起きて、彼女は僕の朝食を作ってくれていて、(テーブルには三人分の朝食があるのだけれど、)僕は新聞を開き、彼女はテレビを見、(彼は朝食をがっつき、)僕は食後のコーヒーを飲み終え、おもむろに立ち上がると、彼女が僕の上着を背後から着せてくれる。
鞄を持ち、僕とともに玄関へと向かい、僕は彼女から鞄を受け取ると、「行ってらっしゃい」と言いながら、彼女とのキスをする。
唯一、彼女との身体の交わりと言えばこの朝の、行ってきますの、キスだ。
そして僕は玄関のドアを開け、自宅を出る。
ドアが完全に閉められるまで彼女は僕を笑顔で手を振りながら、見送ってくれるし、(彼はずっと朝食をがっついたままでいる)僕ら夫婦の生活は、まるで何事もないかのように進んでいく。

「お家を買おうと思うの」と切り出されたのは、とある仕事から帰ってきた日の晩御飯を取り終えたあとのことだった。
僕らのテーブルにはトンカツとクリームシチューとブロッコリーサラダとコンソメスープがあった。
もちろん3人分だ。
「今の家じゃ不満なのかい?」と僕が訊くと、彼女は「そうではないけれど、そろそろ必要だと思うの。子供も生まれるし」
彼女の言い分を僕は理解したような、そうではないような気持ちになった。
僕らはもうずいぶんと、(厳密に言えば、彼女と彼が付き合いだしてから)セックスをするということは生活の一部から除外されていた。
にもかかわらず彼女は子供が生まれると言った。言い切った。
つまりそれは、彼との子供ができるということだった。
僕は彼女と彼の間にできた子供を養わなくてはいけない、と彼女から命令されているような気分になった。
でもそれはひどく気分の悪いことで、僕は彼女を嫌悪した。
僕の表情を読み取ったのか、彼女は僕の顔を見るなり、彼へと何かを耳打ちし、(その間にも彼はひたすらクリームシチューをがっついていた)ひそひそと何事かを囁いていた。
僕は今にもこの二人から、この家から、はじき出されるのではないかと感じた。
彼らは僕をこの家から除外しようとしている。
僕と彼女の間からセックスをいとも簡単に除外したように、僕もこの家から除外される日がもう、すぐ近づいているのかもしれない。
僕は彼女に「何を話しているの?」と訊くと、彼女は「ううん、なんでもないの。関係ないことよ」と笑顔で僕をあしらった。
僕はその晩、一人で床の間につくと、物音を立てないように大きな旅行用鞄に必要なものを詰め込んで、別の部屋から聞こえてくる彼らの大きな叫び声を背後に、その家を出て行った。