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今回はロシア革命前奏曲|知られざるツィンマーヴァルト会議の動画を作成しましたの、その動画の紹介になります。もしかすると事実に反する内容もあるかもしれませんので、エンターテイメントだと思って、疑いの目をもってご視聴いただければ幸いです。

 

ロシア革命前奏曲

 

 

第一話

 

 

「今回は、ロシア革命前夜の1915年9月に、スイスのベルン州の集落、ツィンマーヴァルトで開かれた、秘密の会議について見ていきたいと思います。
ツィンマーヴァルト会議は、のちに、同じくベルン州の集落、キエンタールと、スウェーデンのストックホルムで行われた会議と合わせて、ツィンマーヴァルト運動と呼ぶこともあります。」

「当時、カール・マルクスが指導力を発揮した国際組織、第一インターナショナルの後継団体、社会主義者によって組織された、第二インターナショナルと呼ばれる組織が存在しました。」

「このツィンマーヴァルト会議がきっかけとなり、第二インターナショナルの革命派と、改革派の共闘関係が崩壊しました。」

――スイスの小さな村に、第二インターナショナルの革命派たちが集まって、話し合いを行ったんですね。また、随分マニアックなトピックを取り上げましたね。相変わらず、奇怪なヒトですね。

「ツィンマーヴァルト会議は、ロシア革命を捉えるうえで、非常に重要な出来事だったと、個人的には思っているんです。」

「それでは、当時の社会主義者の間で、国家や戦争について、どのような議論があったのかを見ていきましょう。」

「1889年、国際社会主義組織である、第二インターナショナルが設立されました。」

「インターナショナルの歴史を通じて、戦争反対はその柱となっていました。」

「しかし、戦争を防ぐためにどのような戦術をとるのか、という点でインターナショナルの間で、コンセンサスを得ることができませんでした。」

――今も反戦運動は、その答えを見いだしていないように思いますね。

「国民国家の枠組みの中で、右派の社会主義者は、ヨーロッパの植民地主義、愛国主義を支持しています。」

「ドイツの社会主義者、アウグスト・ベーベルは次のように言っています。」

ドイツの土を一片たりとも外国人に捨ててはならない

「フランスの指導者、ジャン・ジョレスは、「労働者に祖国はない」というマルクスとエンゲルスの格言を次のように批判しています。」

無駄で不明瞭な曖昧な表現で、歴史そのものの皮肉な否定だよ。

「また、ドイツのマルクス主義者、カール・カウツキーは次のように考えました。」

資本主義や帝国主義が軍国主義に繋がるという考えは間違っている。
国際平和を維持するためには資本主義の協力が必要だ。

「一方、左派の社会主義者は、戦争は帝国主義の結果であると考えました。
ドイツのローザ・ルクセンブルクは次のように考えました。」

帝国主義は無法と暴力の中で成長してきた。
帝国主義を求めれば、それ自体が資本主義を破局へと導くことになる。

「ロシアからの亡命者、レーニンも、ローザ・ルクセンブルクと同様に、自分の国を守る事に反対しています。」

――第二インターナショナルの中でも、国家や戦争に対する考え方は様々だったんですね。

「そんな中、1914年、6月28日、オーストリアのフランツ・フェルディナント大公がサラエボで暗殺され、7月28日に戦争が勃発しました。」

「社会主義者たちは、問題が戦争に発展するその早さに驚きました。しかし、戦争は短期間で終わるだろうと楽観視していました。」

「ドイツでは、社会主義者は政府の戦争努力を支援する政策を採用しました。社会主義者の92人の議員のうち、14人が戦争融資に反対しましたが、党の規律に従い、全会一致で賛成票を投じました。」

「フランスとイギリスでも、社会主義者は戦争を支持します。このようにほとんどの交戦国の社会主義政党は、結果的に自国の戦争参加を支持します。」

――反戦思想はどこにいったのでしょう。

「今も実際に戦争が起これば、態度を大きく変える人たちがいるかもしれませんね。」

「このような動きは、国際社会主義運動家の左派の一部にも広がりました。7月28日に、ドイツのハンブルクで2万人のデモ行進が行われましたが、実際に戦争が始まると、多くの人々が戦争を受け入れ、歓迎しました。」

「フランスの銅細工職人で労働運動の指導者、アルフォンス・メルハイムは次のように表現しています。」

フランスでは、戦争に反対すれば、警察ではなく、労働者に射殺されるだろう。

「こうしたなか、ドイツのカール・リープクネヒトは、12月に党の規律を無視し、戦争融資に反対票を投じます。リープクネヒトとルクセンブルクは、ドイツで社会主義左派のグループを形成していきます。」

「フランスでは、メルハイムが反戦運動を主導します。イタリア社会党は例外的にヨーロッパの社会主義政党の中で戦争に反対しました。」

「ドイツの社会主義者、フィリップ・シャイデマンはのちにこのように述べています。」

戦争は党の分裂をもたらしたが、戦争がなかったとしても最終的にはそうなっていただろう。

第一次世界大戦によって、第二インターナショナルは継続不能に陥りました。

すべては失われたが、残っているのは我々の名誉だけだ。

ルクセンブルクはそう表現しました。

トロツキーは次のように表現します。

第二インターナショナルは、社会主義が解放されなければならない硬い殻に過ぎない。

レーニンも次のように考えました。

第二インターナショナルは腐った死体だ。
我々は次のインターナショナルを作る必要がある。

――革命派の社会主義者が、次の段階に移行するために準備を進めていくんですね。

「第二インターナショナルが活動を停止したことで、各国の社会主義者は独自の取り組みを行う必要がありました。」

「1914年から1915年にかけて、中立国の社会主義政党の代表、また、戦争賛成派と戦争反対派の社会主義者は、各自会合を開きました。スイスとイタリアの社会主義政党は、インターナショナルの復活を望んでいました。」

「イタリア社会党の下院議員、オッディーノ・モルガリは、パリでロシアの革命家、ユーリー・マルトフと話し合いを行いました。更にフランスで、ロシアの革命家、レオン・トロツキー、ヴィクトル・チェルノフ、フランスの労働運動の指導者、メルハイムやピエール・モナットら、反戦派の社会主義者とも会合します。更に、モルガリはイギリスに渡り、独立労働党やイギリス社会党の関心を集めました。

「その後、モルガリはスイス社会民主党のロバート・グリムと、戦争に反対するすべての社会主義政党、および団体の会合について議論しました。」

――モルガリが精力的に活動したんですね。

「1915年、7月11日、ロシアの革命家、グリゴリー・ジノヴィエフ、パーヴェル・アクセリロード、イタリア社会党の、アンジェリカ・バラバーノフ、オッディーノ・モルガリ、ポーランド王国・リトアニア社会民主党の、アドルフ・ヴァルスキー、ポーランド社会党左派の、マキシミリアン・ホルヴィッツ、スイス社会民主党の、ロバート・グリムの7人が会合を開きます。」

「ちなみに、このうちの4名が亡命者であり、5名がユダヤ人であることが知られています。」

「レーニンの最側近であるジノヴィエフは、革命派中心の会合を主張しましたが、最終的に、反戦派中心に会合を開くことで合意されました。グリムは会議を9月5日にすることを発表します。」

「第二インターナショナルの反戦派を、広く受け入れ招待しました。会場は、ベルン近郊の、ツィンマーヴァルトという村の、古びたホテルでした。このホテルに、鳥類学会という名前で予約を取ります。」

――秘密の会合という感じですね。

「モルガリは独立労働党やイギリス社会党を招待するために、ふたたびロンドンを訪問しました。」

「レーニンはこの報を受けて、興奮すると共に、疑念を抱きつつ、こう考えました。」

参加者に革命の意志がないのであれば、ブルジョアによって革命の芽が摘まれるだろう。

――なんだか中二くさいですね。

「そういった評価で済めばいいんですけどね。」

「会議の前日、レーニンは革命派をベルンのジノヴィエフ邸に招き、会議の戦略を話し合いました。フランスとドイツの代表者も両国の和解に向けた努力について、事前に会議を開いたとされています。」

――いよいよ、秘密の会議が開かれるのですね。

「今回の話はここまでにしましょう。次回からは会議の話に入ります。」

 

 

第二話

 

 

「今回は、前回に引き続き、1915年9月に開かれた秘密の会合、ツィンマーヴァルト会議について見ていきたいと思います。」

――前回は、第一次世界大戦が勃発し、ヨーロッパの多くの社会主義政党が、戦争支持に回ったという話でしたね。

「国内で少数派となった国際労働者、社会主義運動を推進する組織、第二インターナショナルの反戦派が、スイスの小村、ツィンマーヴァルトで会合を開くべく、集結するところまでを説明しました。」

「1915年、9月5日、スイスの首都ベルンに38人の代表者が集結しました。まずはその代表者を見ていきましょう。スイスからはスイス社会民主党のロバート・グリムらが参加しましたが、彼らは党の代表というわけではありませんでした。」

――主催者側も、党の主流派というわけではなかったんですね。

「イタリア社会党からは、オッディーノ・モルガリ、アンジェリカ・バラバーノフらが参加します。」

「フランスからは、フランス労働総同盟の、反戦派グループの代表、アルフォンス・メルハイムと、アルベール・ブルドロンが参加しました。彼らはまた、フランス社会党、正式名、労働インターナショナル・フランス支部にも所属していました。」

――当時のフランス社会党は、第二インターナショナルのフランス支部だったんですね。

「日本共産党が、コミンテルンの日本支部だったのと似ていますね。」

――また、唐突に凄いこと言いますね。

「ドイツ社会党からは議員を含む10名が参加します。カール・リープクネヒトや、ローザ・ルクセンブルクは参加しませんでしたが、彼らのグループから、ベルタ・タルハイマーとエルンスト・マイヤーが参加しました。」

――カール・リープクネヒトやローザ・ルクセンブルクはなぜ参加しなかったんですか?

「ローザ・ルクセンブルクについてはわかりませんが、カール・リープクネヒトは徴兵により出席できませんでした。」

――反戦派であっても徴兵は免れないということですね。

「当時のロシア社会民主労働党は、レーニンを中心とするボルシェヴィキと、アクセリロードやマルトフを中心とする、メンシェヴィキという二つの派閥がありました。ボルシェヴィキから、レーニンと、グリゴリー・ジノヴィエフが、メンシェヴィキからは、アクセリロードと、マルトフが参加します。ロシアの社会革命党からは、ヴィクトル・チェルノフと、マルク・ナタンソンが参加し、レオン・トロツキーはフランスにあった、ロシアの社会主義者の新聞社の代表として参加します。」

「他にも、ユダヤ人労働者総同盟や、オランダ、ポーランド、リトアニア、ラトビア、ノルウェー、スウェーデン、ブルガリア、ルーマニアからも、反戦派の社会主義者が参加しています。」

「主な参加者は、こんな感じですね。」

――えっ?前回、2度に渡ってモルガリが、イギリスに渡ったと言っていたと思いますが、イギリスからの参加者はいなかったんですか?」

「イギリスの独立労働党とイギリス社会党の代表団も、参加の準備をしていましたが、イギリス当局よりパスポートの発行を拒否されたため、スイスに到着することができませんでした。」

「会議は、ほとんどのドイツ人とフランス人、メンシェヴィキにより、反戦派の右派が形成され、会議の半数を占めました。最左翼のレーニン、ジノヴィエフ、ポーランドのカール・ラデック、ドイツのユリアン・ボルヒャルト、ラトビアのヤン・ベルジン、スイスのフリッツ・プラッテンら8名は、公然と革命闘争と、第二インターナショナルとの決別を支持しました。グリム、トロツキー、バラバーノフらが両翼の中間派となりました。」

「9月5日の朝、ベルンのフォルクスハウスと呼ばれる労働運動のために立てられたビルで、グリムが代表団の前で挨拶をするところからはじまりました。」

「一行は4台の馬車に分かれて、2時間かけて山麓の小さな村、ツィンマーヴァルトに向かいました。トロツキーは、代表者たちは冗談交じりでこういっていたと、書き記しています。」

第一インターナショナル結成から半世紀経った今でも、ヨーロッパ中の国際主義者は四台の馬車に乗せることができる。

「代表者は、会議の期間、手紙を出すこと、外部からニュースを受け取ることを禁止しました。また、彼らは暇を見つけては、周辺の野山を歩き、グリムはヨーデルを歌い、チェルノフはロシア民謡を披露したとあります。」

――確か鳥類学会という名目で宿泊したんですよね。こういった行動はカモフラージュの一種だったのかもしれませんね。

「さて、ホテルに到着した代表者たちは、午後4時に会議を始めます。グリムは会議を開催した経緯を説明し、会議の目的を第二インターナショナルの再建にあるとして、第三インターナショナルの結成ではないと強調しました。」

社会主義の代表者の手から滑り落ちてしまった、社会主義の旗を掲げ、血塗られた戦場の上に、人類の真の象徴を立てよう。

「こうグリムは呼びかけました。」

「会議に参加できなかったカール・リープクネヒトは、妻を介してグリムに手紙を届けていました。この手紙が朗読され、大きな拍手をうけました。そこには、戦争により階級闘争が一時的に停止されていることが批判され、市民的平和ではなく、市民的戦争が必要であると書かれていました。」

――戦争したいのか、戦争したくないのかよくわからない表現ですね。

「グリムはこの会議を、ドイツとフランスの和解であると考えていました。フランスの代表であるメルハイムとブルドロンは、ドイツとフランスの反戦派が協力すれば、虐殺に終止符を打つことができると主張し、ドイツ代表者もこれに合意します。」

「しかし、ドイツの代表の右派と左派の間で、どちらが主導する権利を有するかで対立が生まれていました。」

ロシアの代表は、アクセリロードが中心的な役割を演じ、ロシアの社会民主主義者のみが戦争に反対しているのは、ロシア帝国主義が革命運動を弾圧していることから明らかであるとしました。ロシアの両陣営のアクセリロードとジノヴィエフは、ロシア社会民主労働党の統一を目指すことで合意します。」

「1915年、9月7日、会議は三日目に入ります。そこで、プロレタリアートによる平和運動についての討論が行われました。」

「レーニンをはじめとする左派は、運動の目的を何にするかという問題を取り上げました。革命派のカール・ラデックは、こういいます。」

平和は革命によってのみ達成されるが、革命は戦争を終わらせるだけでなく、社会主義のための闘争に繋がるものでなければならない。したがって、社会主義者は革命の準備をはじめなければならない。

「レーニンはこう加えます。」

この準備のために、既存の組織を捨て、第三インターナショナルを結成することが必要だ。

――第三インターナショナル、コミンテルンを新設することが、この会議の革命派の目的だったんですね。

「グリムは左派の主張に異議を唱えて、こう切り返します。」

我々は党の同志のためのマニフェストを求めるのか、それとも労働大衆のためのマニフェストを求めるのか。どちらなのだろう。

「イタリア人の多数は、会議の目的はあくまでも戦争に抵抗し、平和を促進することだと主張しました。革命派の主張する反乱は成功しないだろうと考え、過激主義がインターナショナルの分裂を悪化させると懸念を述べました。」

フランスのメルハイムはレーニンの主張を切り捨てます。

君らの主張は、セクト主義者の空想だ。フランスの労働者階級は、社会主義に対する信頼を失っている。この信頼は平和を語る事によってしか回復することはできない。

「ドイツ社会民主党のゲオルク・レーデバーは彼らをこう批判します。」

君たちは亡命生活を満喫しているだけで、何もしていないじゃないか。インターナショナルを復活させ、平和のために働くことのみがこの会議の目的じゃないのか

「レーデバーは革命派の決議案に反対し、独自の決議案を提出しました。

――革命派の主張により、主催者による当初の会議の目的がブレていっている感じがしますね。

「中間派は、トロツキーの立場に似ていましたが、戦術面で折り合いがつきませんでした。左派は少数派でしたが、議論の構成を決定し、穏健派の合意形成を妨げることに成功しました。」

「メルハイムは、レーニンを批判してこういいました。」

革命運動は平和への努力からしか生まれない。同志レーニン。あなたは平和への努力ではなく、新しいインターナショナルを立ち上げたいという衝動に、突き動かされている。これがわれわれを分断しているのだ。

「大会の決議を書く委員会を作ることが決定しましたが、ここでも同じように意見の対立が生まれました。」

「レーニンは、戦争融資に反対するように各党に呼びかける内容を、決議に盛り込むべきであると主張しました。」

「一方、ドイツのレーデバーは、もしそのような呼びかけを盛り込むなら、ドイツの代表はツィンマーヴァルトから出ていくだろうと強く出て、主導権を握られることを阻止しました。」

「このため、中間派のトロツキーが決議案を作成するよう一任されました。」

――トロツキーが決議案を作成するという時点で、穏健派の右派は主導権を握られているような気がしますね。

「9月8日、いよいよ会議は四日目の最終日に入ります。トロツキーの草稿が会議全体での討論にかけられました。グリムは戦略上の不一致を強調しすぎないようにレーニンに釘を刺します。」

「議論は戦争融資の話に再び焦点が当てられました。トロツキーら中間派は、革命派を支持し、戦争融資に反対票を投じるよう呼びかけるべきであるとマニフェストに盛り込むべきだと主張します。」

――やはりそうなりますよね。

「しかし、ドイツのレーデバーは最後通告を発し議論を封じます。グリムもこれ以上の修正案を出さないように指示します。」

「最終段階に入り、モルガリがマニフェストに拒否権を行使すると主張しました。周囲がなんとか説得することでモルガリはこれを撤回します。」

「グリムは議論を打ち切り、全員がマニフェスト草案を支持することで合意されます。代表たちはインターナショナルを歌い、歓声を上げたと言われています。」

「その後、レーデバーの提案により反戦活動を調整するための、国際社会主義委員会の設立が決定されました。左派はこれを第三インターナショナル創設の好機と捉えました。」

「常任理事には、グリム、モルガリ、通訳としてバラバーノフらが選ばれました。グリムは全員を無事に帰国させるために、会議の文書を国境を超えて持ち出さないこと、14日後に議論を開始することなどと呼びかけました。会議は翌日の午前2時半に終了しました。」

仕事は完了したが、疲労困憊で、悦びを感じることができなかった。

「と、バラバーノフは回想しています。」

――バラバーノフは通訳をつとめていましたから、なおのこと大変だったのかもしれませんね。

「今回はここまでとなります。次回はマニフェストの内容とその後の流れについて説明したいと思います。」
 

 

第三話

 

「今回は、前回に引き続き、1915年9月に開かれた秘密の会合、ツィンマーヴァルト会議について見ていきたいと思います。」

――前回は、4日間にわたる議論がどのように展開されたかという話でしたね。

「今回が最終章となります。」

「マニフェストがどういったものだったのか、ツィンマーヴァルト運動がその後、どのように発展、解消していったのかを見ていきたいと思います。」

「まずは、マニフェストの内容について見ていきます。」

「フランスとドイツの代表団は、共同でマニフェストを発表したとされています。」

――イギリスは会議に参加できませんでしたから仕方がないとして、フランス・ドイツ両国は、第一次世界大戦、西部戦線の主要国ですからね。

「内容は会議の最初の話し合いで、彼らが合意したものだったと言われています。彼らは、フランスに進軍するために中立であったベルギーに対して、それを侵害したドイツを非難し、ベルギーの独立を回復することを求めました。ドイツの代表団が、ドイツによってベルギーが併合される可能性を危惧し、これを提案したとされます。」

「一方、鉄鉱と石炭の産地としてフランスとドイツの間で、長い間係争地となっている、アルザス、ロレーヌについては触れられることはありませんでした。」

「声明では、戦争の原因をすべての政府による帝国主義にあると非難し、社会主義政党に対して、戦争への支持を放棄し、階級闘争に戻ることを求めました。」

――階級闘争ですか。こういった部分が、ただの平和主義運動とは解釈できない部分ですよね。」

「世間で行われている、いわゆる平和運動も、深い部分ではかなりの程度、階級闘争史観なのかもしれませんけれどね。」

――実際に平和デモに参加している一般の人たちはともかく、その扇動者たちは、もしかするとそうかもしれませんね。

「フランスとドイツの代表は、それぞれの政府が戦争を終わらせるまで、平和のために戦うことを誓いました。」

――平和を求める事と、階級闘争が、裏表の関係になっていると考えると少し複雑ですね。

「それでは、マニフェストの内容を少し覗いてみましょう。」

戦争によって、ヨーロッパは巨大な人間の屠殺場と化し、最も野蛮な獰猛性が、それまでの人類の誇りあるすべてのものに対して勝利を祝っている。

第一次世界大戦の影響によって悲惨と窮乏、失業と欠乏、栄養失調と病気、知的かつ道徳的荒廃、経済的災害と政治的反動が生み出されてしまった。

第一次世界大戦の原因は帝国主義にあり、各支配階級が自分たちの利益のために国境を塗り替えようとした結果である。

一方、社会主義政党は、階級闘争をやめ、戦争融資に投票し、戦時政府に参加するなどして、それまでの決意を放棄した。

――戦争融資の投票の話が盛り込まれているんですね。

「最も右派と左派がもめた点ですが、妥協点として、反対票を投じることを要求しなかったんですね。」

社会主義政党が個別に失敗したように、全ての国家の社会主義者の最も責任ある代表者までもが失敗している。

併合も賠償もなく戦争を終わらせ、労働者は自身の大義のため、社会主義の神聖な目的のため、抑圧された国家と奴隷にされた階級の救済のため、不俱戴天の労働者階級の闘争によって戦うべきである。

その目的は平和を回復することである。

「ツィンマーヴァルトのマニフェストは、第二インターナショナルが、戦前に決議したものとほとんど変わらない内容でした。」

――そうなんですか。

「ツィンマーヴァルト宣言自体は、特に真新しいものではなかったということですね。」

「ただし、先進資本主義国家が行っているすべての戦争は、本質的に帝国主義的なもので、国防は全く意味がないとした点が、異っていたとされています。」

「ツィンマーヴァルト会議で作成されたマニフェストの中身についての話は、以上となります。」

「それではツィンマーヴァルト運動がその後、どのように発展していったのかを見ていきたいと思います。」

会議の直後、それまで知られていなかった、ツィンマーヴァルトの名前が世界中に知れ渡っていった。

「後にトロツキーはこのように回想しています。」

「9月20日に、ロバート・グリムがツィンマーヴァルト会議の記事を掲載します。10月14日には、イタリアでも検閲を掻い潜って、ツィンマーヴァルト会議のマニフェストを新聞に掲載します。パリのトロツキーは、会議について論じることを禁じられたため、架空の日記としてこれを掲載しました。」

――会議からおよそ二週間後から、宣伝活動を始めたんですね。

「しかし、検閲の影響もありなかなかヨーロッパ中に広がることがなかったと言われています。」

「ヨーロッパの戦況は、死傷者が増加し、生活環境も悪化し、次第に防衛戦争という政府の主張が通用しなくなってきました。」

「こうしたなか、ツィンマーヴァルト運動は、シベリアにまで広がりを見せました。」

「1916年の4月に、スイスのキエンタールで第二回の会議が開かれました。
そこで採択されたマニフェストは、より左傾化したものだったと言われています。」

「5月に入ると、各国の社会主義政党の制止を振り切って、大衆が大規模なデモを行うようになりました。ベルリンでは1万人がデモ行進を行いました。戦争を支持した社会主義政党は党員数を失っていきます。ドイツ社会民主党は63%も党員を失うこととなりました。」

――戦況が悪化したことで、彼ら反戦派にとっての状況が良い方に働いていった、というのは皮肉な話ですね。

「ロシアでは1917年2月に、二月革命が起こり、ロシア帝政は崩壊しました。二月革命の後、ツィンマーヴァルト運動の両派の溝が広がりました。」

「運動の衰退の原因は、左派と中間派の対立、左派の分断工作にあったのではないかと考えられています。平和が現実味を帯びてきたことにより、第二インターナショナルの旧指導部が活動を再開、これに対し、ツィンマーヴァルト運動は、平和以上のものを求めていったことも対立の原因の一つと考えられています。」

――平和以上のものというのは、これまでの話から考えると、第三インターナショナルの創設と、速やかに革命を行うというものですね。

「6月には指導者のロバート・グリムが、スキャンダルにより指導部を退き、イタリアのバラバーノフが幹事をつとめるようになりました。左派が指導部に加えられ、組織は事実上左派に委ねられるようになりました。」

「9月にストックホルムで第三回目となる、ツィンマーヴァルト会議が開かれ、少数派であった左派の立場が、多くの代表者に支持されることとなりました。」

「1917年10月、ロシア社会民主労働党のレーニンを指導者とする一派、ボルシェヴィキが、十月革命により、権力を掌握しました。」

――これは本当にまさかという感じですね。ヨーロッパで悠々自適な亡命生活をしていたボルシェヴィキ指導者が、革命により権力を掌握するとか、意味がわかりませんよね。

「これにより、ツィンマーヴァルト運動は実質的に無意味化しました。
ツィンマーヴァルト指導部は、ロシアのボルシェヴィキ政権の政策を支持、推進しました。十月革命に懐疑的な組織は、ツィンマーヴァルト運動から疎外されていきます。」

「1919年3月、モスクワで開かれた会議で、第三インターナショナル、通称コミンテルンが創設されました。コミンテルンは、ツィンマーヴァルト運動を介して、これまでのインターナショナルとの連続性を主張しました。」

「設立総会で、ツィンマーヴァルトのメンバーであるレーニン、プラッテン、ラデック、ラコフスキー、ジノヴィエフが署名した決議により、ツィンマーヴァルト運動の解散と、コミンテルンへの統合が発表されました。決議文では次のように記されています。」

ツィンマーヴァルトで真に革命的であったものは、すべてコミンテルンに引き継がれ、合流した。

「バラバーノフは、ツィンマーヴァルト指導部を代表して、コミンテルン結成を支持し、ツィンマーヴァルト運動は一時的な防衛組織に過ぎなかったと述べました。」

「戦争の後に誕生した国際共産主義運動の多くは、ツィンマーヴァルト左派から生まれたものでした。ほとんど日本で知られていないツィンマーヴァルト会議ですが、コミンテルン創設の準備段階として、非常に意味のある会議として認識する必要があるのではないか、と個人的には想います。評価すべき会議、という意味ではないですよ。」

――確かに、これまでの流れを追っていくと、レーニンら亡命者による革命派が革命前夜にどのような活動をしていたのかが、よくわかりますね。最初はどんなトピックを取り上げているんだろうと疑いをもっていましたが、ロシア革命を理解する上で重要な会議だったんですね。

「それでは、三回に分けて紹介した、ツィンマーヴァルト会議の話はこれまでとなります。」
 

動画作成メモ

 


Davinci Resolveのプラグイン、MagicAnimateV2を毎回設定していましたが、プリセットを作ることにしました。

MagicAnimateV2のシャドウの初期値は、ほぼ必ず設定しなおさなければならなかったですが、これはドロップシャドウを使用した方がいいかなと思いました。

あとはズーム・スピン・ディゾルブの調整も大変でしたが、これもセットしておけば簡単でしたね。

後は
Fusionに画像挿入して、使いどころの位置調整をすれば、自動的にすべての画像のサイズが同じになり、エフェクトも固定されるようになります。

これでシャドウの位置調整をしなくて済みますし、元画像のサイズ調整が比較的簡単になるのではないかと思っています。
 

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最後に

 

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