この記事の内容は、様々な資料をもとに書かれています。

 

内容の中には一部ないしは全体を通して、資料に基づく偏見や誤りがある可能性があります。また、筆者自身による偏見や誤りがある可能性も当然否定できません。

 

できる限り公平かつ事実に基づいて記事を書きたいと考えていますが、この点を踏まえていただけましたら幸いです。

 

今回のテーマは嫌悪です。

 

 

 

 

はじめに

 

ここでは、政治的な、あるいは社会学的な議論でしばしば登場する嫌悪という言葉について考えたいと思います。

 

嫌うことは罪なのか

 

昨今の社会はヘイト(嫌う)ということに非常にヒステリックになっていて、例えば外国人に対するヘイトだったり、あるいは女性に対するヘイトだったり、その逆に自国民に対するヘイトだったり、男性に対するヘイトだったりと、兎角嫌うことに対して社会が罪のレッテルを貼るような世の中になっています。

 

もちろんヘイトスピーチに対する取り締まりは特にはアメリカでいうところのリベラル派、社会自由主義が重要な役割を演じてきたと思います。

 

私たちは特に弱者や少数者を嫌ってはいけないということになっており、それとは逆に強者や多数者に対しては嫌ってもいいみたいなそういったどこか欺瞞的な言論が展開されていると、直感的に感じられるわけです。

 

社会全体がいつの間にか嫌うことを取り締まるような風潮が生まれ、私たちは何か違和感を感じながらも、嫌悪の対象を受け容れなければならず、やがてはそれを積極的に自ら進んで取り入れなければならないという強制された状態へと推し進められます。

 

果たして嫌うことは罪なのでしょうか。自分とは異なるものに対する嫌悪、更にはこういったことはあまり言いませんが自己への嫌悪は取り締まられなければならないことなのでしょうか。

 

嫌うことはやめられない

 

もし私が嫌うことは人間やめられないのだよといえば、そんなことはないという人がいるかもしれません。この批判は実際に正しいわけですが、私が言いたいのはそういうことではありません。

 

私たちは何らかの対象を嫌いであるという状態をもしかすると辞められるかもしれませんが、私たちは生物として、人間の心理的なメカニズムとして、嫌うという情動を自分の中から排除することができないのです。

 

人間である以上は、常に何かを嫌悪する瞬間を迎えるようにできています。そしてこの生物的機制に基づく嫌悪という感情は生物的な自己防衛システムとして不完全ながら機能しているメカニズムでもあります。

 

私たちにとって嫌うことは常に自分たちの感情を、あるいは生命を守るために存在しているとは言えませんが、それでも私たちを進化してきた生物として見た場合、嫌悪することで自らを守ってきたという側面があることも事実です。

 

単細胞生物から多細胞生物へと進化し、やがてはニューロンシステムを構築していった生物は、常に対象への不快感によって自己を、そして自己を取り巻く集団を保存してきたという側面があります。

 

もちろんこれが現代の社会にあって、この機能が万全に働かないということもあるでしょうが、それとは逆に社会や政府の要請の方がむしろ、私たちの嫌悪よりも私たち個人や集団を危険な目に晒すということも十分に考えられます。

 

生物の基本となる感情

 

 

生物の基本となる感情については様々な考え方がありますが、1980年にアメリカの心理学者ロバート・プルチックが提唱した感情の輪の概念が非常によくそれを表現していると思います。

 

生物、あるいは人間が生命を保存するための基本的な感情の基礎となっているものは、次のようなものと彼は考えました。今回取り上げている嫌悪がまず一つあげられます。これと対応したものが信頼です。嫌悪と信頼という二つの感情が心理の基礎となるものを構成しています。

 

これと同様に悲しみと喜び、予期と驚き、恐れと怒りという全部で8つの概念が感情のベースにあるとしました。それ以外の感情はこの8つの感情を基礎とした複雑感情であると考えることができます。

 

人間に限らず高等動物に非常に頻繁にみられる反応であり、私たちは嫌悪や信頼、悲しみと喜び、予期と驚き、恐れと怒りという感情を常に持ち続けて生きていくことになります。そしてそれが動物として正常な状態であるとも言えるでしょう。

 

私たちはある対象に対して、嫌悪し、信頼し、悲しみ、喜び、期待し、驚き、恐れ、怒ります。これらの感情が喪失することは基本的にはありません。あくまでもこれらの感情を制御する試みは可能であっても、感情が生まれる機制は排除できません。そして当然に排除する必要もありません。

 

例えば、外国人であれ、自国民であれ、女性であれ、男性であれ、特定の個人であれ、不特定の何物かであれ、私たちは常に彼らを嫌う可能性を秘めています。そしてある意味で私たちは確かに嫌いになってもいいのです。問題なのは嫌うことによって生じる現象、例えば相手を不快にさせたり、悲しませたりということなどです。これも一概にすべてが悪いこととも言えません。

 

私たちはこういった嫌悪の対象としての、そして同時に信頼・悲しみ・喜び・期待・驚き・恐れ・怒りの対象としての他者との関係性をより良い方向へと導く必要があるというのは間違いないでしょう。

 

それは決して嫌悪することによる罪なのではなく、相手との関係性や相手の存在の捉え方などを再構築していくことによって、他者との共存を測りえると考えることもできるでしょう。

 

もちろんこれも万全の方法などではありませんが、嫌悪感の抑圧などは正常な解決策であるとは言えないでしょう。

 

他者への様々な感情

 

繰り返しになりますが、他者に対して私たちは様々な感情を表出します。もちろん嫌悪することもその一つですが、私たちはそれと同時にすべての他者に対して信頼し、悲しみ、喜び、期待し、驚き、恐れ、怒る可能性もまた同時に持ち合わせています。もちろんこれ以外にもこれらを組み合わせた複雑感情もまた私たちは他者へ、そして自己へと向けることでしょう。

 

私たちは殊更、嫌悪という概念ばかりを取り上げて、外国人ヘイトだ、女性ヘイトだという捉え方をするのは、感情とは何かという観点から捉えるならばバランス感覚を喪失しているように感じます。

 

私はハッキリと外国人を嫌悪したり、女性を嫌悪したりすることがあると言っておきます。そして同時に信頼したり、悲しんだり、喜んだり、期待したり、驚いたり、恐れたり、怒ったりもするのです。もちろん自国民に対しても同じですし、同性に対しても同じような感情を持ちます。

 

それはもちろん翻って私自身にも向けられるわけですし、嫌悪することがそれ自体として単純に差別であるとして社会から排除するというのは正常な反応ではありません。

 

あくまでも嫌悪以外の感情、信頼、悲しみ、喜び、期待、驚き、恐れ、怒りの感情とともに、互いに相手との関係性を構築していくしかありません。嫌悪を排除しようとしても決して私たちは嫌うことを強制的にやめることなどできないのです。

 

もちろん、こういったヘイトへの規制はこういった人間のメカニズムを知り尽くした上で、人々への嫌がらせとして作り出されたものであるという可能性がないとも言えません。これは一つハッキリとさせておく必要があります。

 

まとめ

 

最近のご時世は、何でもかんでもヘイトを排斥するという形で議論が進んでいますが、今一度、そもそもヘイトという感情はそもそも何なのかという根本的なこと、生物的な機制というレベルまで立ち返って議論する必要があると思います。

 

実際に最近のヘイト規制は単にヘイトを増殖させただけです。それは人間の、あるいは生物の感情への配慮が足りないからです。もちろんヘイトを増殖させることが目的なのかもしれませんので、単純に幼稚な政策とは言えないかもしれません。優れた謀略である可能性すらあります。

 

しかし、そういった政策が幼稚なものであれ、謀略であれ、私たち自身が今一度嫌うこととは何かという問いを見出し、見つめなおすことによって、このようなヘイト問題に向き合うことができるのではないかという観点をここでは提示したいと思います。

 

さいごの一言

 

最後までお付き合いいただきありがとうございました。ご感想などありましたら、気軽にコメントください。

 

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