「正欲」
朝井リョウ
ぜひ原作を読んでみたいと思った作品です!
原作小説と、それが映像化されたものを両方観ると
良し悪しに関わらずだいぶ原作と違うなとどうしても思うものですが
個人的に、この作品の映画はかなり原作に沿っていると感じました
もちろん、映像化にあたってすべてのエピソードが再現されているわけではないですが
え!?これは違うなぁという違和感はなかったです
原作を読むと、より詳しく登場人物の心情やバックグラウンドが描かれています
「多様性を認める」と安易に言う昨今の風潮と
勝手に「認めてもらう側」にされてしまう人たち
それを意識することもなく「認めてやる側」にいる人たち
そこに生じる矛盾点をこれでもかと厳しく追求しています
もうコレ読んじゃうとね
軽々しく「多様性」とか、「分かり合う」とか「尊重しあう」とか言えなくなりますわ…
スン…
ってなってしまう
わたしは何も考えずに男性と結婚して子を成しています
いやなにも考えてなかったわけじゃないんだけど
この本読むとなーーんにも考えてない愚かなバカモノですみませんって気になってくるのよ
自身を性的にマイノリティだと考えている登場人物の、
いわゆるマジョリティへの憎しみがスゴい笑
それだけに綺麗事じゃなく、彼らが「人と違う」ことを
どれほど悩み苦しみ嫌悪してきたかということなんだが
映画化にはなかったエピソードとして、
いわゆるマジョリティ強者のつまり陽キャが
陽キャっぽいというかいかにもパリピな死に方をします
そしてそれを、マイノリティたちがひそかに嗤うっていう
嗤うっていうのとは違うかもだけど、そりゃ当然死ぬだろ的な事を思うの
このエピ読んでてめっちゃヒヤヒヤした
こんなん書いていいの!?みたいな
でも正直、自分にも当てはまる気持ちなんですよね
わたしは性的にはたぶんマイノリティじゃないけど
人に比べて良くない方に違うとか弱いとか劣ってるとか陰性だと自覚していて
それだけに無茶な行動は控えているから
こういうDQNのDQNならではの不幸みたいなものに
うわー私なら絶対こんなことならないわぁって思ってるの絶対ある
性的マイノリティを自覚して引け目を感じてる人達も
マジョリティ側とされてる人がすべてを過信した結果やらかすのを見て
自分が見ている世界が全てだと信じ込んでいる者を愚かだと哀れむ
かといって、自分の世界と他者の世界をつなげようとは思わない
というか、そんなことはどう考えたってムリなんだけど
むしろ、なにもわかんないバカが踏み込んでくんじゃねーーよ!!
ってなことが繰り返し書いてある
もうシュンとしますわ
どうしたらいいの
世間話もできないね

私がなにか不慮の事故で死んだとしたら、やっぱり能天気馬鹿かやらかしたと思われるんだろうか
どんな人だって、一瞬のうっかりで死ぬ可能性はあると思うよ?
映画では、どうしてもガッキー×磯村夫婦がクローズアップされていましたが
小説では大学生の神戸八重子がもっと深く掘り下げられていて
八重子のパートはこのお話の救いだと思いました
八重子も一応王道側というか、「わからない人」「踏み込んでくる側の人」
なんですけど
彼女は彼女で誰にもいえない悩みを抱えて苦しんでいました
それでも世界の違う人をわかりたい、
わからなくても話してみたい
繋がってみたいと考える人物です
今まで人と違っているということでさんざん傷ついて来た立場からすれば
その「分かりあいたい」「つながりたい」って行為がもう傷つけられることでしかないから
ほんとに難しいんだけど…
正直、わたしも正解がもう何もわからないもん
他人とは天気の話以外しないのが正解じゃないかという気にすらなってるわ
でも、マイノリティだろうとマジョリティだろうと
みんなどこかで不安だし
傷つくのは嫌だし
正解を欲しがってる
だれかと繋がりたいし
明日をあたりまえに生きたいと思っている
そしてその権利はだれにでもある、とは言いたいけど
児童買春や児童ポルノを扱う人達にもそれが言えるかっていうとなぁ
いわゆる普通の性行為だって同意がなかったら犯罪だし
じゃあ、小学生のやってるYouTubeチャンネルに
完全にエロ目的でいっけん性的には感じないコメント(これはあくまで性的にノーマルな人の価値観で)
を残すのはアリ?
線引きが難しい
そして、その線引きを誰がするのか?
結局、原作を読んでも答えは出ない
むしろますます迷宮にハマる私でした
個人的な意見ですが、
やっぱり杓子定規も世の中ある程度必要というか
それが結果的に大多数を守ることになるし
………。
え?「大多数」ってなに?
その「大多数」以外は救われなくてもいいってこと…?
〜以下、思考ループ〜