書籍『無国籍』から国籍について考えてみる | グローバルライフコーディネーター JELLY Japan の起業ブログ No borderで国際相続までお任せください

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「何だ、これ?」中華街でのランチミーティングも終わり、会計しようとカウンターに行くと置いて有ったのが『無国籍』という本だった。



「多国籍ならは分かるけど『無国籍』って?」本を眺めていると「天璽(Tien-shi)だったら、さっき来てたよ~」と、店主。「誰その人」と、思いながらも会うことになるかもしれないと思った。

陳天璽(CHEN TIEN-SHI)さん、昭和46年横浜中華街に生まれた中国人、国籍は無国籍。この本の主人公である。そんな彼女の自分史が新潮社の文庫本で出版されていた。

国際社会にメイドインジャパンとして飛躍して行く時代。海外に資産を持たれてる方、国際結婚をしている方の相談窓口を作り、活動をして行こうとしている私には、とても衝撃的な本で有った。

陳さんの両親は中国生まれの資産家、中国が共産主義と国民党に分かれ争う中、逃れた台湾で二人は出会い結婚。5人の子供に恵まれる。父のみ日本に渡り横浜中華街で仕事を見つけて家族を呼び寄せる。そして、日本で生まれた6人目の子供が天璽(ララ)である。

物語は家族と台湾に行った時の空港でスタートする。次々と入管に入った家族に続き天璽(ララ)が台湾に入国しようとすると呼び止められ、入国が許可されずに日本に送還される。日本に戻ると再入国許可の期間切れで入国出来ないから台湾に帰れと言われる。彼女は国と国の狭間で入国出来ない人となる。その時の彼女の国籍が無国籍。

戦後、蒋介石の国民党の台湾と関係良好だった日本は、1972年9月に中華人民共和国と日中国交正常をした。その時の中華街華僑の中心は台湾の方々が主流で有ったが、中華民国大使館が閉鎖されるにあたり、領事館には国籍消失証明書を貰うための長蛇の列が出来た。

その時、台湾系の皆さんが選択を余儀なくされたのが、政治や文化の違う中華人民共和国国籍に変更するか、日本国籍に帰化するかという選択。いずれにしても無国籍になるプロセスは必要だった。陳さん家族はどこの国にも属さない「無国籍」を選択した。

自分の帰属やアイデンティティを規定しする国籍は、「外国人」「何々人」と区別する根拠となる。しかし、国家が与えてくれる国籍は、国の変動により変わることもあれば、複数の国籍を持ったり、何も持たず無国籍となったりすることも有る。

マクロな視点から、論理的に世界を分析することに慣れていた彼女が、個人のプライベートな経験を通し、ミクロな点から世界を見ていくアイデンティティ探しの旅は、とても新鮮だった。

小学校一年生の頃、横浜の中華学院にいた彼女が、図書館でたまたま手にした本が日中戦争の歴史を残した写真集。転がっている複数の中国人の死体、生き埋めにされている辨髪の男とその横の日本兵、映像のあまりの酷さに驚き、泣きじゃくりながら家に帰った彼女は「なんで私たちは日本にいるの?」と、両親に問う。

父はこのように答えた。「ララ、私たちがこの国に住んでいるのは、歴史を乗り越えるためなんだよ。パパは戦争を経験して思ったんだ。国と国の関係よりも、人と人の関係はもっと深いものだ。本当に理解し合えば争うことはない。だから、ここ日本でお前たちを中国人として育てる。国を超えるような人になって欲しいんだ」

小学校中学校一貫で中華学院で過ごした彼女は、高校進学で選択をすることになる。中華学院では卒業しても大学を受ける資格が取れない。両親は日本の高校を受けて欲しいが、彼女は、差別をされないであろうオーストラリアへの進学を希望する。両親の説得で受験するだけと考えていた公立高校に思惑とは別に合格をし、初めて日本人の人の群れの中にマイノリティとして入っていく。

高校三年生の時に世界史を選択した彼女は1945年のポツダム宣言の教え方が中華学院の教え方と違うことに気付いた。先生はアメリカとイギリスの首脳がアメリカ主導で統治を主張し、それが実現することで日本の分割統治を免れ、今の日本が有ると教えた。

彼女は手を上げ、「先生、中国の首脳も日本の統治について意見を述べたはずです」先生は、来週までに調べてきますと答え、翌週先生が持ってきた答えは「調べても見つからなかったよ」だった。

彼女が中華学院で習った教科書には、日本が敗戦した8月15日、蒋介石が「以報復怨(徳をもって怨みに報いる)」という演説をし、日本に対しての賠償責任を放棄し、のちに日本の分割統治に反対する立場の基礎を築いたと載っていた。

変わらず海外留学の希望を持ちながらも推薦で筑波大学に新設された国際関係学類に入学、夏休みのUCLA短期語学留学プログラムに応募する。ようやく日本でのマイノリティ扱いから解放されると思った彼女に新たなストレスが生じた。

出会う人々と話すとき、皆あいさつ変わりに交わす「Where are you from?」という言葉だった。「どこから来たの?」でもあるし、「あなた何人なの?」にもなる。「I   am Chinese」と、自己紹介すると「中国のどこに住んでるの?」「中国で流行ってる音楽はどんなもの?」と、返ってくる。答えられない。外の世界ばかりが気になり自分が分かっていなかった。彼女は、ある時期からこう答えるようになった「I am Chinese, but born in Japan」

堂々と話す彼女を見て友人のアサコがいう「I envy you」実は日本人と思っていた友人は、日本生まれの朝鮮人だったのである。高校まで事実をひた隠していたのだという。日本の中でも自分と同じような気持ちを持つ人たちがいることを感じた瞬間である。

その後彼女は筑波大学大学院国際政治経済学研究科を終了し、香港中文大学に留学。ハーバード大学フェアバンクセンター東アジア研究所の客員研究員となりながら、無国籍での就職に変わらず悩んでいた。

インターネットで仕事を探すようになった彼女は、国連への就職にトライしようとニューヨークのマンハッタンに向かう。必要書類に記入をし、面接官と面談すると空欄に目を向けられた。「日本に永住している華僑で、パスポートは中華民国・台湾です」「日本の国籍は持っていないのか?」「いいえ、永住者です。アメリカのグリーンカード保持者のようなものですが」「そうか。じゃあ、中華人民共和国の国籍は?」「いいえ」「台湾か。国連の加盟国じゃないんだよね」「中国語と日本語が両方出来るのは希少だけど、国籍が問題になるな。国連のメンバー国じゃないし」

彼女は、無国籍であるという自分の問題から、国家とは何か、国境とは何か、国籍とは何か、そしてアイデンティティとは何に支えられているものなのか、自分の中に絡まった糸を、一本一本、紐解く作業をして行った。その問題の根幹は、個人と国家の関係だった。

彼女は、日本内外で怒涛の活動を開始する。無国籍、マイノリティを探求して行くのだが、ある人からこう言われる。「それにしても、無国籍を選んだあなたのお父さんはさすがだの。近頃、日本は国際化、国際化というが、その本当の意味をわかっておらん。無国籍の人たちこそが、本当のコスモポリタンじゃよ。人は国を超えないといかん」

人の人生から学ぶ世界観。机上論の私に喝を入れてくれた一冊。本を手にとって本当に良かった。陳さんに会いたいと改めて思った。