想田和弘監督のドキュメンタリー映画「精神0」に、こんな場面があるんです。

 

 

精神科医を引退することになった山本昌知先生と奥さんが、近所に住む奥さんの仲良しを訪ねる。

 

 

一見して裕福だとわかる手入れの行き届いた趣味のいい家。仲良しの女性は、先生の奥さんとほぼ変わらない年だけど、シャキシャキと元気です。高い朗らかな声、はっきりとした滑舌、お茶を入れにいくときのしなやかな身のこなし。80代とは思えない。

 

 

対する山本先生の奥さんは、穏やかな表情を浮かべて大人しく座っています。認知症が進み、友だちの話ににこやかにうなずくだけ。

 

 

仲良しの友だちは、お金持ちで元気で頭もよくていい人だから、先生の奥さんがいかにいい人で優れていたか(本当に学校一の秀才で常にトップだった)、どんなに楽しいときも苦しいときも励ましあって一緒に過ごしたか、株の投資や歌舞伎、旅行、クラシックコンサートを楽しんできたかを奥さんの手を握って、その目をのぞき込むように熱心に話す。

 

 

お友だちにはわかっているのです。自分はカクシャクとしていて、相手はボケてしまった。その歴然たる差。だからこそ、その差に優越感なんて微塵も覚えていないことを饒舌すぎるほどの親愛と尊敬の弁に込める。わたしたちは、一緒ね、一緒ねと。

 

 

先生は、「共生をうたってきましたからなあ」と精神科医を辞めると今度は、認知症の奥さんと「共生」しなくてはいけないことを独り言みたいに言う。

 

 

年をとることの予測不可能性と残酷さと人情がこれでもかと詰まった場面。

 

 

「元気でいる人」は、「元気でない人」に対して、どう振る舞おうと圧倒的勝者になってしまう。その誰にも責任がないのに生じてしまう、いたたまれなさ。

 

 

幼いころ、自分が病気で寝ていて同級生が学校から給食のパンや宿題を持ってきてくれたとき、まぶしく感じたのは、そこに「自由」を手にした強者を感じたからか。

 

 

老いるとは、予測不可能性のなかに飛び込み、どんな未来が現実になっても引き受けることだ。

 

 

ラストシーン、山本先生と奥さんはお墓参りへ。ヨタヨタと長い道のりを上ったり、下りたり、曲がったり…。

 

 

二人が転ばないかとハラハラして見つめながら、予測不可能な冒険のなかを生きることはなんてかけがえがなく、雄々しいことなのだろうと思いました。

 

 

でも、わたしには手をつなぐ人がいないんだなあ。

 

 

それも、予測不可能性の一つだね。引き受けるしかない。

 

 

二人っていいな。

 

 

年老いた夫がおぼつかない足を踏ん張り、妻に自分の手をつかめと差し出す。

 

 

最高に美しい抱擁だ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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