最近、私は自分がどうやら寂しいのだということに気がつきました。

 

 

義母が「(夫が)生きていてくれるだけで違うから」と言ったとき、「もう、そういう言い方やめてよ。そういう言い方、嫌いなんだよ」と思ったのだけど、こういう言葉はほとんどの場合、あとで同じことを思うことになる。

 

 

子育て真っ最中のときに「あっという間よ」と言われると「うるせえ、黙れ」と思ったけれど、時が過ぎて自分が祖母世代になると、「あっという間」としか表現できないことを知るみたいに。

 

 

渦中にある人間にとっては、繰り返しの日々が明日も明後日も続くことが大変すぎて苦しすぎて1年後だって、3年後だって「永遠にやってこないに等しい遠い日」だけど、解放されてしまえば、「あっという間」。

 

 

この時間感覚の不均衡、なんとかして。手に余る。

 

 

過ぎて見れば、余裕なき日々が充実していたようにさえ感じられるんだから、喉元過ぎれば、というか、勝手というか。人間って。

 

 

あっという間は、あっという間でいいんだけど、過ぎてしまった日々を博物館のように時々訪ねて、見て歩けたらいいのになあ。思い出のものを手にとったり、触ったりしながら、実態のあるものとしてしっかりと確認できたらいいのに。

 

 

でも、そうなると、もうそこから出てきたくなくなるのか。そこにいて、ウーバー頼んでごはん食べてもいいけどな。

 

 

「あっという間」に過ぎた何千日分の一秒一秒ににぎっしりと詰まっていた雑多な出来事やそれによって引き出された感情は、すべてが霧散して記憶という名の触ることのできない、心もとないものになってしまう。しかも、思い出す場面はほとんど同じで、忘れていることのほうがはるかに多いし。

 

 

夜、台所に立って洗い物をするとき、かつて同じ自分が同じように台所に立っていたときのことを思い出すんですよ。

 

 

何が違うって「気分の土壌」が違うのです。

 

 

かつて私は台所に、私以外の、この場合は夫という別の人間が立てる音(テレビのチャンネルを変える音、ソファに寝転ぶときの音、小さな、ときに大きな咳やため息など)などから生まれる気配と、その気配を手掛かりにして夫の気分を推し量って生まれる「私たちの気分」をあたりまえの土壌として立っていたのです。

 

 

人間って「自分と、そこにいる自分以外の人間の気分」の両方を混ぜ合わせて、そのときの自分の気分を作りだし、それを自然として受け入れ土壌にして生活しているものなのですね。そういうものに根を張り、幹を育て、葉を茂らせて呼吸しているのです。

 

 

寂しいというのは、「混ぜ合わせることのできる別の気分がない」ってことなんだな。

 

 

自分だけ、というのはなかなかにして平板なものですよ。

 

 

娘がいますけどね。それはあまり混ぜ合わさらない。なんでかな。幸多くあれ、十全に生きよ、と願うのみ。

 

 

老いエッセイで断トツの面白さ

 

 

 

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