こんなふうにダラダラとブログを書き続けていますが、
本人は、いつも「もっといいものが書きたい」と思っているのです。
「もっといいものが書きたい」のなかには、自分が好きな「あの人、この人のような文章が書きたい」というのもあるし、「もっと多くの人の心をとらえたい(つまり人気を集めたいとか売れたいとかそういうこと)」もある。さらに「自分自身が心の底から読みたいと思い、読んで感動するものを書きたい」というのもあります。
これらは、すべて志とか、向上心とか呼ばれるもので決して悪くなさそうだけど、どーも、そうでもない。悪影響のほうが大きいと思うようになりました。
なぜかというと、「もっといいものが書きたい」の「いいもの」の理想が高ければ高いほど、自分の現状との落差の大きさの前に立ち止まってしまうからです。
これ、何かに似ていると思ったら、「家」の問題に似ていました。
「どんな家に住みたいか」と聞かれると、だれでも「こんな家」というのが浮かぶのではないでしょうか。浮かばなくても雑誌なんかで写真を見て「これこれ!こんなところに住みたい!」と思うことはあるでしょう。
しかし、自分の家は…あまりにも違い過ぎる!立地も違えば、間取りも、建材も、庭も、広さも、家具も、何もかも違う。しかも、もう、あちこち古くなっている!
台所を使いやすくしたい、ついでにお風呂も、収納も、フローリングも古くなっている…あああ!これは全面リフォームしかない!
・・・となるとお金はどうする?老後の蓄えも不安だし・・・となる。
理想の家と現実の家との落差の大きさの前に立ち止まってしまうのです。
でも、やっぱり、今の家、今の貯金、今の家族、今の土地、今の家具、今のセンス、今の整理整頓力と掃除力でなんとかやっていくしかないんですよね。リフォームするにしろ、しないにしろ。
手持ちのあれこれをかき集めて、ありあわせのもので、毎日の暮らしを何とかやっていくしかないんです。
わかっているのに、憧れレベルの「もっといいもの」を思い描いて、ありあわせを「もっといいもの」にすることをあきらめてしまうんだなあ。
そもそも、この「自分」だって「ありあわせ」ですもんね。オギャーと生まれたとき、能力も、容姿も、家柄も、国籍も、性別も「はい、これでなんとかやってみて」と与えられたものだもん。何一つ自分で選んでないよ。
生まれたときから、ありあわせの宿命。あるもので間に合わせる運命。
うさぎと亀の物語。あの競争は当然、人生の比喩なんだけども、亀はきっと、ありあわせで工夫したんでしょうね。創意工夫を続けたんでしょう。そうこうしているうちに、いつの間にか遠いところまで行けた。
ありあわせで、とりあえず作る。ないときは、間に合わせる。このへんの能力、ホントーに大事。
料理に限らず、きっと、なんでもそうなんですね。わたくし、これからもありあわせで書いていきます。よろしくです。
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基本動作の少なさが、カラダの硬さの原因か。昭和の大人は柔らかかった?
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