先日、義母がわたしの姉に柿を送ってくれたそうです。姉が「果物のなかで柿が一番好き」というのを覚えていてくれたのでしょう。宅配便を受け取った姉は、すぐさまお礼の電話をかけたんだとか。
話のなかで義母が、「息子のせいであっちゃん(わたし)やサキちゃん(わたしの娘)に寂しい思いをさせて…」みたいなことを言ったらしいのですが、その言葉を受けて姉は、
「おかあさん、一番寂しくつらいのは、Aさん(夫)です。まだやりたいことがたくさんあったでしょう。そして大事な息子さんを亡くされたおかあさんも本当におつらいでしょう」と言ったそうです。本当にそう思うから、と申しておりました。
姉ちゃん、こういうとき、いいこと言う。
「…寂しい思いをさせて…」を受けて「いやいや、大丈夫ですよ。元気にやっていますから!」という安心のさせ方もないわけではないけれど、それはどこかで「妹は、夫なしでも平気」というニュアンスを含みがちで、お義母さんとしては一抹の寂しさを感じるでしょう。
「寂しいでしょうが、なんとかやっています」も悪くはないけど、それはすでにお義母さんだってわかっていることだから、「そうだろうなー」と受け止めるレベル。心は動かない。
姉がやったことは、「悲劇の真の主人公は、あなたの愛する息子であり、あなた自身です」と言ったわけで、これは救いになっただろうなあと思います。照明の向きを変えて義母の心の真ん中に光を当てた感じ。
主役はあなただ、と伝えたのです。
つくづく思うのですが、人は、「誰か」の話をしているとき、そこに必ず「自分」を含めています。
ときに自分と重なる部分のある存在として、
ときに自分と重なるところのない真反対の存在として。
その意味で、人は「いつだって自分のことしか話していない」と言ってもいいぐらいです。
みんな自分のがんばりを、「共感」や「賞賛」というカタチで「別の人」に託して話している。
だれの話をしていても、主役は自分なのです。
そのことで思い出すのですが、夫の闘病中、義母も夫のきょうだいも、「夫が主役。わたしは看病する脇役」という扱いは一度もしませんでした。このことには、心の底から感謝しています。
わたしのことを常に「大変なことの真ん中にいる主役」として扱ってくれた。干渉も介入もなかった。
勝手に主役を決め、自分以外の人間を「脇役」にしてはいけないのです。
自分自身も「脇役」に甘んじてはいけない。
看病や介護にあたる人を「脇役」として扱う人がいたら、ちゃぶ台ひっくり返してよし。
看病や介護に限らず、やすやすと人を「脇役」扱いする人がいたら、できるだけ速足で逃げましょう。
そんな人の配役で安手のドラマを演じる必要は、どこにもありません。
どこまでいっても退屈で、不自由なストーリーしかないよ。
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