子どものころ、実家には仏壇と神棚があって、確かそれぞれにお水やお茶と炊き立てのご飯を供えていました。台所でその器を洗うことも何度もあったけど、「そういうもの」としか思ってなかったなあ、と今、思います。

 

 

父と母は、幼くして息子を亡くしているので、その顔を思い浮かべて線香を上げたり、お供えものをしたりしていたでしょう。そうに違いないのだけど、兄は、わたしが生まれる前に亡くなっているため、「そういうもの」として過ごしてきました。

 

 

そもそも、昔の家の仏壇は、いかにも仏壇で、場所をとり、そこだけ荘厳で重々しく、昭和といえどもインテリアにそぐわない。なんかこう異質の存在。異質で年寄りくさい存在。若者は、何が嫌いって退屈さの別名でしかない「年寄りくささ」が嫌いなので、「そういうもの」として距離をとり、意に介すことなく、情緒を刺激されることもなく、若者のわたしは、若者の時間を過ごしてきたのです。

 

 

 

 

いま、うちには葬儀社が作ってくれた祭壇があり、そこにお水やごはんを供え、毎日、その器を洗います。実家のときと同じように。

 

 

そして思うのです。

 

 

こうやって仏事は日常に炊飯や洗い物として織り込まれ、「そういうもの」として淡々と受け継がれていくのだと。知らなかったけど、「灯華香飯(とうげこうはん)」というんですね。ロウソクを灯し、花を供え、線香をあげ、ごはんを供える。その繰り返し。ごくごく単純な行為の日常化と儀式化による、いつまでも続けていけるほどよい負担の習慣化。先人の知恵だなー。

 

 

わたしの暮らしにも、そこにいない人に向けた「儀式」が加わりました。写真に向けて話しかけることもあれば、話しかけないこともあります。手を合わせながら胸中で何事かを言っていることもあれば、なんにも思っていないポーズだけのこともあります。たぶん、それでいいんでしょう。「心のなかの語りかけ」と「儀式」には、いつだってズレが生じるものです。

 

 

普通のカレンダーに加えて周忌というカレンダーも加わり、一人の人間の死を起点とした時が動きはじめました。

 

 

寺山修司は、マルセル・デュシャンの「死ぬのはいつも他人ばかり」という言葉をよく引用していたけど、生きていれば、あらゆる些末なことを共有できるけれど、死んじゃったら、どんなに近しい人も死者という大勢の他人に紛れ込んでしまう。それが喪失の正体なんだな、と思います。

 

 

日々の「灯華香飯(とうげこうはん)」は、よく知る夫を、数多の死者という他人にすることであり、わたしも、それに次第に慣れていくのです。お経だってそうだな。

 

 

空の、だれかにむけて、フン!って言いたい。そこらの死者といっしょにすんなって感じ。

 

 

  お知らせ

 

5月ころから書いていた「おしゃれをしろと言われましても…」が地方新聞で連載スタートしています。伊勢新聞にはすでに掲載されたと教えていただきました。これからみなさんの地元の新聞にも掲載されると思いますので、見かけたら読んでみてください。

おしゃれを切り口に同世代の女性の心を深いところで励ましたいと思って書きました。イラストは、このブログのタイトルイラストも描いていただいている中島慶子さんです。毎回、期待を裏切らない楽しくて面白い挿画をお楽しみに!全12回連載です。

 

下記ツイートから1回目が読めます

 

 

  良ければ、こちらもお読みください。

 

★ウェブマガジン「どうする?Over40」→誰だってドンヨリしてる。「他人の嘘」より「自分のドンヨリ」。

 

★コメントありがとうございます。オフィシャルブログの仕様で、わたしから直接お返事が書けません。こちらのフォームからメールをくださるか、ツイッターで話しかけてください。(ツイッターの返信が一番早いです)

 

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