昨日、市役所に戸籍謄本をとりにいきました。

 

 

本籍地の戸籍には、わたしの欄に「配偶者死亡」と書かれていて、別の市で届け出をしても、すみやかに登録されるのだなあと思いました。

 

 

窓口の人がサクサクと手続きをしてくれて、番号札をもって受けとり、お金を払います。もろもろの手続きを終えた帰り道に感じたのは、

 

 

死は、必要なことなのだ。

 

 

ということです。一人の人間の肉体が消え、戸籍が消え、その人間が果たしていた役割が次第に他の人にとって代わられ、あちこちに残っていた記録も消える。身分証明書も免許証も口座もクレジットカードも消える。最後は、同時代を生きた人も消えてしまう。

 

 

夫の死は、わたしにとっては「喪失」だけれど、自然のなかでは「新陳代謝」であり、いたって当たり前のことなのです。戸籍上では、「削除」。PCなら「デリート」です。

 

 

夫は3年11カ月前に倒れたので、それ以降に結婚した彼の甥や姪の配偶者たちは、彼を知りません。親族のなかに夫をまったく知らない人がいる。その当たり前のことに、かすかに理不尽さを覚えます。もちろん、わたしという存在も「会ったことのないおじさんの奥さん」という希薄なものになっていくでしょう。それもいたって当然のこと。子どものころ、そんな感じの人、親戚のなかにいませんでした?親はそれなりにつきあっているけれど、子どもの自分はまったく親しみを感じない一人暮らしのオバサン。

 

 

いま、わたしが、そうなったのです。わたしの「過去の人」化も進んでいます。それでいいし、そういうことなのです。「凛として年をとる」などと言いますが、それは、自身の「過去の人」化を自然なこととして受け入れることなしに成立しないとわかりました。

 

 

自分の心の速度を追い越して夫の死は自明のこととなり、それを前提にサクサクと物事が進んでいきます。

 

 

告別式の祭壇と棺が花で埋め尽くされるのを見て以来、花というものの不思議な力に改めて驚いています。カサブランカ、桔梗、カーネーション、胡蝶蘭、菊…その多様な色とデザインを一体、誰が作ったのか。こんなにも多様なのに、なぜ、一つ残らず美しいのか。

 

 

いまも夫の祭壇には花がありますが、物言わず美しく咲く花を近しく感じます。花に満ちたこの世は、もうすでに天国なのかもしれません。

 

 

わたし自身もかなりの部分が「過去」になりました。「敦子おばちゃん」から「会ったことのないおじさんの奥さん」に変わるように。

 

 

さよなら。わたし。その半生。

 

 

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