この3月までマンション自治会役員会の書記なので、ここひと月ほどは、総会資料のたたき台を作成し、会議で確認してもらい、コピーから配布までの段取りをしてきました。それが昨日、終わりほっとしていたら、一本の電話。一人の役員さんからです。

 

 

「資料もらいましたが、部数が多いんですが」

「はい。会議でお伝えしたと思いますが、配布後に紛失する方もいますから少し多めにお配りしています。もし、なくした方がいたら、再度、渡して確実に委任状をもらってください」

「うちはね、実は、一軒空き家ですからね、2部も余りますけど」

「はい。大丈夫です。余ったら処分していただいてもいいですので」

 

 

その後、新会長からも電話があり、

 

 

「資料、拝見しました。決算数字に間違いがあること、気づいておられますよね」

 

 

え?

 

 

まさかの配布後のミス。会計監査を受けた後にミスって…?つら。あわてて会長と話し合い、会計さんに対応してもらって修正版を再配布することになりました。

 

 

それはぎりぎりに間に合ってよかっただけど、わたしは、言いたい。

 

 

まずは、「お疲れさま」じゃなかろうか、と。

 

 

質問するのもいい、間違いを質すのもいい、何なら意見をぶつけるのもいい。正確を期すためにどんどんお願いしたいぐらいだよ。

 

 

でも、その前に一言「お疲れさまでした」があってもいいんじゃなかろうか。もしくは、最後に「お疲れさまでした」があってもいいんじゃなかろうか。

 

 

資料一式をもって管理事務所まで自転車こいで坂道を上り、職員さんに「このコピーは、どっち向きにすんの?」とぶっきらぼうに対応され、1800枚程度のコピーを依頼して帰った翌日、またもや自転車をこいで50センチほどに積み重なったコピーの山を受け取り、各役員担当分に分けて自転車に積んで、それぞれのポストに入れる作業、自分の分担といえば分担だけど、それなりに大変だったんだぞ。

 

 

現会長は、事あるごとにわたしに電話してくるけれど、それは、わたしが、大げさに「お疲れさまです!」と言うからじゃなかろうか。現会長も、「お疲れさまです!」に飢えているんだ。だから、二人で「お疲れさまです」をしきりに言い合うのです。

 

 

そういえば、何年か前、うちの姉ちゃんが複数の友人とランチをすることになり、レストランを探し、それぞれの日程を調整した後、予約をして、またみんなに連絡したら、最後の最後に「和食がよかった。今からでも、変えられないの?」と言われたと、ちょっとプンスカしていたことがありました。

 

 

和食がいいなら、最初に言っとこうな。どうしても変更したいなら、自分で段取りしような。そして「ありがとう。お疲れ様」の気持ちも示そうな。

 

 

「お疲れ様」という言葉を口にするのは、「そのために割いた労力と時間をちゃんとわかっている」と伝えることです。

 

 

地域の仕事であれ、集まりの幹事であれ、毎日の掃除であれ、料理であれ、ホームパーティーへの招待であれ、「お疲れ様!ありがとう!」は、万事そういうこと。「労力と時間をわかっている」と示し、そのことへのまずは感謝を伝えること。これをしないのは、「タダ乗り」なのです。

 

 

タダ乗りクセがつくと、どんどん鈍感になるので、あちこちで、タダ乗りを繰り返すようになる。

 

 

たとえば、目の前に出てくる料理。誰が買い物に行き、誰が料理し、誰が盛り付け、誰が運んだのか。そのすべてに「人」と「時間」がからんでいる。つまりは、人生の時間が。

 

 

この「人生の時間」への想像力は、歴史的遺物や絵画や小説や映画なんかを見るときにも不可欠だと思うな。物事を味わう原点でもある。

 

 

「お疲れさま」を言ってほしい気持ちをこじらせて、話を歴史・芸術方面にまで広げてしまいました(笑)。それほどまでに、この言葉を求める気持ちは強いのか。

 

 

読んでくださってありがとうございます。お疲れさまーーー。

 

 

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