朝倉かすみ氏の「平場の月」のなかにこんなところがありました。「須藤」は、ヒロインの名前、「みっちゃん」はその妹です。

 

 

須藤は目を落とした。膝を抱えていた。厚ぼったい靴下を履いたつま先をじっと見ていた。みっちゃんからのクリスマスプレゼントの「あったかグッズ詰め合わせセット」に入っていたフリースの靴下。模様はお茶目なトナカイで、その茶色い蹄のあたりを見つめる須藤の目に、これまで過ごした人生が流れていくのが映ったようだった。

 

後味の悪い結婚生活の一部始終や狂乱の一時期のツケが回ってきただけ、と自分自身に因果を含めるような気配があった。それは、たしかに、弱音を吐きそうになる抑止力になるだろう。こうなったのは自分のせいだと、いわゆる自己責任だと。帳尻が合っただけだと。

 

 

この後、つきあい始めた恋人の「青砥」が、「それだけは言うな」と(実際には、須藤は何も言っていないのに)声が破れるように言うのですが、

 

 

上の引用した箇所。

 

 

人が視線の先にあるものに心を流れ込ませるようにして映し、じっと自問自答して弱音を抑えるときのありようを描く、その解像度の高さ!クリスマスプレゼント→フリースの靴下→お茶目なトナカイ→その茶色の蹄のあたり!

 

 

ああ。人はこうして物を見つめるものだ。わたしも、何度もこうやって物を見つめてきた、と思いました。

 

 

子どものころ、友だちの発言に傷ついてじっと筆箱を見つめたとき、そこに描かれた101匹わんちゃんの犬が視野を満たし、「自分」と「犬」だけになった真空の世界。若いころ、散らかった部屋のテーブルに転がるカップ麺のペラリと捲れた蓋を見つめ、その用済み感と自分自身の役立たず感をじっと重ねた、虚ろな時間…。

 

 

人は深く内向するとき、眼前に存在する物に心が流れ込むのだ。そうだ、そうなんだ。自分と目の前の物だけが世界を満たし、周囲が遮断される感覚。そこを流れていく自分のつまらない人生。

 

 

つまり、孤立です。

 

 

孤立は、こうして完成するのです。物(それもどうでもいい)と自分が直に結びついて成り立つ無音の世界。そこに閉じ込められる感覚。

 

 

わたしが、年をとるにつれて、できるだけ身のまわりの物を片付けるようにしたり、商品パッケージをそのまま置かないようにしてきた背景には、「自分の視野を物が満たしたとき、心が荒廃になだれ込む」のを避けたいという願望があるんじゃないか。そのことにも改めて思いいたりました。

 

 

朝倉かすみ氏について、書評家の豊崎由美氏が「作者の『心の耳』の感度の良さに目を瞠る」と書いていますが、本当にそのとおり。「今、このとき」を満たすものが、小さな小さな声まで聞き取られ、描かれている。決して大げさにならず、その小ささのままに。

 

 

 

 

 

★月曜はこちらにも書いています→スー(犬)が教えてくれる、ルーティンの偉大さよ。

 

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