ウェブマガジン「どうする?Over40」のミカスさんと月亭つまみさんとで、毎週金曜日、ただ雑談するだけのPodcast番組「That's Dance」をやっています。

 

 

そこで「いっしょにいると自分がすごく無能だと感じる人たちがいる」という話をしました。

 

 

わたしは、ある種の人たちといっしょにいると、自分の一挙手一投足が何とも役立たずで間抜けで、グズグズしていて、その場にふさわしくないと感じることがあるんです。

 

 

ところが、そのときの感覚はリアルに思い描けるのに、うまく言葉で説明できません。「劣等感を感じるってこと?」「自分にできないことを相手ができているときに感じるとか?」などと尋ねてもらうのですが、「いや、ちょっと違う。そうじゃなくて…」と口ごもるばかり。

 

 

そういう能力差のことじゃないのです。わたしは、その「無能に感じさせる人たち」に憧れたり、嫉妬したり、尊敬したりはしていないのです。歴然とした能力差だったら、ただただ「すごいな」「ああなりたいな」と思うだけで自分自身の「役立たず感」には結びつきません。

 

 

この無能感、なんだろうー。どういう場合なんだろうなーと、それからもずっと考えていたのですが、ツイッターでやりとりをしているときにわかりました。

 

 

わたしは、「自分を変えない人」といっしょにいるときに、ものすごい無能感を感じるのです。

 

 

たとえば、相手が「確固たる価値観をもっていて、それがまったく揺るがない人」だったら、ものすごく自分を無能に感じます。

 

 

若いころは、その「揺るがなさ」を「熟考の深み」や「人間的強さ」だと勘違いしていたので、圧されるような迫力を感じ、「すごいな。これが、プロなんだな。大人ともいうんだな。わたしは、いつまでも幼くてフラフラしていてダメだ」と文字通りの無能感を覚えていました。相手もわたしをとらえどころのない、骨のない、中途半端で未熟な人間だと感じるようで、その視線に「なんか、自信なげな人ね」というマイナス評価を感じて余計に落ち込んだりもしました。

 

 

いま、「勘違いして」と書きましたが、そう、今ならわかります。あれは、勘違いでした。

 

 

「自分を変えない、揺るぎなさ」は、熟考の深みや人間的強さとはまったく別物です。往々にして視野の狭さや人間的弱さを隠す見せかけの鎧だったりもします。そしてわたしが感じた無能感の正体は、無力感でした。

 

 

たとえば、二人で会話をしているのに、相手は何も変わらない。その立ち位置を1ミリたりとも動かさない。こちらが、どれだけ言葉を重ねたり、選んだり、工夫したりしても変わらない。変わるのは、自分のほうだけ。相手が「変わる」ということに価値をまったく置いていない(むしろマイナス評価を下している)ため、相手に歩み寄る方法を探り続ける自分が、どんどん愚か(無能)で無力に思えてくる…。

 

 

「ああ。ここで自分の能動性は発揮できない」と感じたとき、圧倒的な無能感に襲われるのです。

 

 

ツイッターで月亭つまみさんとこんなやりとりをしました。

 

 

 

 

 

 

この年になって「能力」は、「自由に心を動かせる場」があってこそ、とつくづく思います。そして会話は、自分も相手も少し変わっていくほうがいい。この世界が刻一刻と変わっていくように。予期せぬ言葉を受け取ったり、それに刺激されて思わぬことを口にしたりしながら、小さい何かを発見し、一瞬前の自分より少し変わっていくことを楽しみたいし、変わることを恐れずにいたいと思います。

 

 

不自由は、人を無能にします。わかってよかった。

 

 

★月曜はこちらにも書いています→手芸は、平穏な状態へと導く「静かなる剛腕」か。

 

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