いつだったか「ほぼ日」のコラムに糸井重里さんが「怒っている人は、みんな、『自分を大事にしろ』と叫んでいる」というようなことを書いていました。店で激昂するおじいさんも、事件を起こす青年も…みたいなことです。
わたしにも思い当たることがありました。最近。
ある仕事がうやむやになりながら、次第になくなっていったものの、請求の立ちにくい小さな責任だけがわたしに残って「どうしたものかな」と思ったまま、時間だけが過ぎていました。
別に負担になっているわけでもないけれど、何かあったときに社内に責任者がおらず、無償の外注(わたし)が背負っているのはいかがなものか…と思い、辞退したい旨のメールを出しました。
これまでの時間を振り返ると、ずっと空回りしていたなあと思いました。こちらの「役に立ちたい」という気持ちと先方の思いがうまくかみ合わず、こんな事態になったのでしょう。悲しいことに外注には、社内の状況はわかりません。それぞれの人の置かれた立場があり、決済できることにも限界がある。そのことは重々わかっているつもりです。
でも、いつも手ごたえがなかった。いくつか制作物も作りましたが、役に立ったのか。立っていないのか。評判は良かったのか、悪かったのか。手を抜くことなく仕事をしただけに寂しかったです。
ああ、大事にしてほしかったんだなと思いました。大事にするとは、こちらの要求にすべてこたえてほしいということではない。率直な思いを伝えてくれること、それはNOでもかまいません。「通じている」「受け止めてもらっている」という、ちょっとした手ごたえの蓄積です。
思えば、コピーライターの仕事をはじめて34年。「この仕事は手を抜けない」「気に入ってもらえるよう全力を尽くす」「この人との約束は決して裏切れない」と心に誓うのは、その担当者が、わたしのことを正当に評価してくれていると感じられるものです。正当な評価(お世辞でない)があって、その上で大事にしてくれていると感じられたら、うれしい。
納品した後の「ありがとうございます!」の「!」とか、「クライアントからお褒めの言葉をいただきました」と知らせるだけの一行メールとか。そういうちょっとしたことの繰り返しが喜びにつながる。
大事にされたら、大事にされ返す。心理学でいうところの「返報性の法則」ですな。
ごくまれに仕事では「褒めない」「感謝しない」「意気に感じない」と決めているかのような事務的やりとりを貫く人がいるけど、きっと大した仕事できないと思うな。返報性の法則に例外はないので、感謝や激励を「ケチっている」分、相手からも「がんばりの大盤振る舞い」はしてもらえないはず。
「自分を大事にしろ」という切なる願いから生まれる怒りは、知らず知らずに蓄積し、それは次第に「手抜き」という静かだけど慢性的な裏切りを生むのです。そう。裏切りは、ほとんどの場合、ぎりぎりまで従順な顔をしています。
ここまで書いて、わたしも誰かの厚意を当たり前だとスルーして、その胸に怒りの種を撒き続けているんじゃないかと怖くなりました。ちょっとこれから、自分の行いを見つめなおす旅に出てきます。
「わたしを大事にして」という叫びに年齢は関係ない。心のなかの赤ちゃんが声を枯らして泣き続ける。わたしたち人間の本質的な欲求ですね。
完全に満たされることはかなわない、という意味でも、永遠で、切実。
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