スーの散歩のとき、いっしょに歩くことの多い友だちは、わたしより年下で50歳ちょっと。

 

 

普段は、「PayPay、20%ポイントバックしてるで」とか「あそこの惣菜より、あそこの惣菜がおいしい」とか、そういう話をしながら歩くのですが、瀬戸内寂聴さんが亡くなった翌日、友だちは不意に「寂聴さんのとこ、行きたかったな」と言いました。「一番、しんどかったとき、行って、話、聞いてもらおうと思ってん」

 

 

さらに続けて「京都やったのに。行こうと思えば、行けたのに。いつも、気づいたら手遅れや」「ほんまやな」「寂聴さんが亡くなったら、うちの母親はどれぐらい生きるやろうと思った」

 

 

二人してしんみり。「いつも、気づいたら手遅れ」という言葉が、それぞれの胸のそれぞれのところに沁みてしんみり。そんなことはお構いなく地面のクンカクンカ作業に余念のないスーに視線を落として歩きつづける二人。

 

 

「老後、なーんもないのはイヤや」と友だち。「そうやな。でも、そうはならへんの違う?友だちも多いし、趣味もいろいろあるやん」

 

 

そして私たちは、いつものマンションの談話室でカフェができたらいいなーという話になるのです。

 

 

だれかとつながっていられる未来。ふらりと立ち寄ったら、気の置けない仲間がすでにいて、どうでもいい話をしては笑いあって、ほどよい時間に「ほな、また」と行ってさらりと家に帰っていく…そんな場所があったらいいなあと語りあうのです。

 

 

友だちは、若いお母さんたちの子どもを預かって「買い物行って来て!」なんて言ってあげたい、とも言います。「それ、めっちゃいいやん」「いいよね」・・・でも、どちらにも「じゃあ、わたしが中心でやる」と手を挙げるまでの情熱はなく、いつまでも、そうやって盛り上がっているだけです。



つながっている未来を夢見ること。

ずっといっしょにいられる未来を信じること。
 

 

それは、ひとりになることから逃れられない人間が見る「虹」のようなものかもしれません。美しくて儚くて、ずっと見ていたいもの。そして、優しい気持ちにしてくれるものでもある。

 

 

「ふらり」と立ち寄れるカフェは、「ふらり」が大事。「さらりと帰る」の「さらり」も大事。

 

 

★月曜日にはこちらにも書いています→犬の散歩で繰り出す「笑顔の会釈」、意味があるのか!?マスクの下で。