築40年のマンションに住んでいるので、自治会役員も高齢化しています。十数年前に役員をしたときは、当然ながら、わたしも今より十数歳は若かった。他の人だって同じ分だけ若かったのです。

 

 

ところが当時50代後半から60代前半だった人たちが、後期高齢者になろうとしているか、すでになりました。

 

 

会議室のなかは、十数年前に比べてぐっと色目が地味になりました。それぞれの肉体から放たれる目には見えないエネルギーは、劇的に少なくなっています。

 

 

この「目に見えないけれど、確かに感じるエネルギー」って何なんでしょうか。中学校や高校の教室や部室には満ち満ちているであろう、それぞれの肉体から放たれているに違いない超微細な物質(フェロモンか)。おそらくは、その物質を、わたしたちの鼻や細胞は嗅ぎとり、感じとっているんでしょうね。それによって、自分のなかにも力が満ちる気がする。なんだか「可能性」や「未来」なんてものも感じる。

 

 

つまるところ、「活気」とは生命が放つ性的物質の濃度と運動のことではないか。

 

 

十数年前も決しては多くなかったであろう性的エネルギーは、激減しています。シンと静かな会議室。わたしたち人間が、「言葉」で交わし合う情報は、そんなに多くないのでしょう。もちろん「見た目」や「声」でもいろいろ交わし合っていますが、きっとそれ以上に、この肉体の放つフェロモン系というか、ホルモン系というか、毛穴や汗腺や脇や、いろんなところから発せられる微量物質系の交換量が多い気がする。動物だからね。

 

 

会議室で感じたのは、「言葉以外の物質が飛んでいない」ということです。わたしは、目の前の「おじいさん」からどんな物質の飛散も感じず、「おじいさん」は目の前の「おばあさんになろうとしているおばさん(わたし)」から何の物質の飛散も感じていない。

 

 

言葉にする以前の「魅力」の交換、なし。

 

 

爽やかともいえる。寂しいともいえる。ああ、老いたよ、わたしゃ。

 

 

幸い、誰一人「威張りん坊」な人がいないため、みんな同性のようです。おじさん&おじいさんも、自分の困りごとを「ここだけの話ですけどね…」「困ったもので…」と「問題提起のなかに愚痴や悪口をこっそり忍ばせ、そっちの方向に話が展開してもやぶさかではない」という姿勢を醸し出しつつ、真剣に議論しているふりをしています。人間って、本質的に噂話や打ち明け話が好きなのです。もっとも簡単に「共感」を媒介するからね。

 

 

あ。何が言いたかったのだろう。

 

 

性的物質の飛散量が激減もしくは枯渇してしまっても、なお魅力のある人は、何を放っているのだろうと思ったことが一つ。根が俗なので、「わたしは、そんなふうになりたいなあ」と思ったり、そんな「老いた男性」に出会ってみたいなあとも思ったりしました。あと、この感覚は、エイジズム(年齢差別)の一つかもしれないとも思った。わたしには、ぬぐいがたいエイジズムがあって、それは今後、自分を苦しめるのではないかと。

 

 

あと、もうひとつは、なんだっていいや、みんな愛おしっていったら愛おしい。自分も含めて「普通にダサく年をとっていること」が愛しい!とも思いました。だれも、そげん、かっこよく年はとりきらん。ダサく、小賢しく、保身的になるだけたい!と故郷の長崎弁で思ったりしたのです。

 

 

心は、いつも千々に乱れる。

 

★続きをこちらで考察しています。よかったら、お読みください。

性的物質の代替は、着るものの「色」と「新しさ」だ。

 

 

最近、読んだ本。
田中小実昌氏について書いた「小実昌さんのこと」が抜群に面白かったです。