「人に助けを求める」ことは、漠然と考えているときや、他人事の場合はすごく簡単に思えるけど、いざ、という場合や、具体的に頼まなくちゃならない場面を迎えるとなかなか難しいものです。

 

 

わたしも犬のスーがめちゃめちゃ病院嫌いで、一度、ハーネスが抜けて脱走したことがあったので、できるだけ一人で行きたくない。友だちの車に乗っけてもらったり、一緒についてきてもらって「わたしが抱く、友だちがドアを開ける」などの分担作業があったほうが安心。というか、そうでないと不可能。

 

 

ところが、いざ頼むとなると、だれもが快く引き受けてくれるに決まっているのに「あー。でも、自分で何とかなるかなー」とか、「一人でできる方法、考えておきたいなー」とか必ず思ってしまいます。なんなんだ、この逡巡。

 

 

イ・ヒョンソという女性の書いた「7つの名前を持つ少女~ある脱北者の物語」を読んだら、北朝鮮に多数の餓死者が出た1996年、「私は誰かがこんなことを言うのを聞いた。『ここには、3種類の人間がいる。飢える者、物乞いをする者、そして商売をする者だ』」という一文を見つけました。

 

 

日本にも戦後の闇市で商才たくましく稼いでいく人間がいたように、北朝鮮にも「危機をチャンスに変える」人が大勢いたわけですね。確かにそんな映像を見た記憶がある。そういう「根源的なたくましさ」に強烈に憧れるけれども、残念ながら、わたしにその才はありません。

 

 

…となると、あとの二つですよ。「飢える者」か「物乞いをする者」。

 

 

皆、自尊心があるので、自分が飢えているなどとは恥ずかしくて決して言えない。なので、もし食事を出してくれると言われても断る。ミンホ(著者の弟)の若いアコーディオンの先生が家に来るようになると、母は毎回、彼に『お昼を食べていきますか』と尋ねていた。まだゆとりがあったので古い礼儀作法を守り続けていたのだ。

 

先生はいつも『ああ、もう食べましたから、ありがとうございます』と言って礼儀正しく頭を下げ、『でも水とテンジャン(調味料)を少しいただければうれしいです』といった。(中略 変わった人だなと思っていたら)その後、先生は来なくなった。母は、彼が餓死したと聞かされて驚き『食事を出すと言ったのにどうして断ったの?』と思った。彼にとっては、自分の命よりも誇りのほうが大事だったのだ。

 

 

「飢える者」と「物乞いをする者」の違いは、自尊心の取り扱い。わたしたち人間は、自分で思っている以上に「命よりプライド」を重視する存在なのです。

 

 

わたし、この文章を読んでいるとき、自分が「ありがとうございます」と言って背中に視線を感じつつ靴を履きながら、お腹の足しにもならない調味料の入った袋を手に立ち上がり、玄関のドアを開けて「さよなら」と笑顔で挨拶する様子がめちゃめちゃ鮮明に浮かんできました。そして帰路、絶望するのです。もう、わかりすぎてつらい。わたしも、ギッリギリまでそうする気がする。

 

 

「助けを求める」ことには勇気が、
「上手に助ける」ことには技術がいるんだ。

 

 

これから、年をとっていくのだから、「助けを求める」ことに少しずつ慣れていき、「助け合う」ことに上手になりたい。過度に頼りすぎて負担をかけるのでなく、もっと上手に助け合う方法を見つけていきたい。

 

 

プライドへの想像力と取扱い方法、これが要だな。自他のプライド。