季節は、秋。大阪はまだまだ暑くて半袖でOKだけど、日差しは秋を感じさせます。そこでつい、「ああ、行楽シーズンだねえ!」「そろそろ紅葉だねえ!」という言葉が出て、風光明媚なところを景色を愛で、土産物も名物も愛でながら歩きたいなあと思います。

 

 

そうしていると夫と歩いたことをおのずと思い出す。そして考えるのです。「一人で歩く」のと、どこが違うのだろうかと。なぜ、こうも、いっしょに歩いたことが懐かしいのかと。

 

 

そんなことを繰り返すうちにわかりました。

 

 

二人で歩いているときは、周囲の風景を見て「自分が感じていること」と、隣や前を歩いている「夫が感じているだろうこと」との両方を心のなかで思っているのです。

 

 

心のなかで行ったり来たりしながら、これは二人共通の感覚なんじゃないか、と思った瞬間に「きれいね」という言葉を口にしてみたりする。それは、そこにいる夫本人に直接語りかけていると同時に、自分のなかにいる「そう感じているであろう夫」に向けた言葉でもあります。

 

 

この「そう感じているであろう夫」は、長い時間をかけてわたしの中に蓄積した「このとき、こう言っていた」「あのときは、こんな顔をしていた」などのデータから導き出されるものです。好きなもの、嫌いなもの、よくわからないけど反応するもの、面白がるもの…いろいろなものがわたしの脳内に雑多に蓄積され、何となく分類されている。「あのときは、機嫌がよくてうれしそうだった」とか「あ、これ以上行列に並ぶと不機嫌になるから早めに切り上げよう」とか。これらの膨大なデータと私なりの分類によって「そう感じているであろう夫」は、日々、更新され正確さを増していきました。

 

 

同時に、並んで歩く夫には「立ち入れない未知の部分」も常にあり、わたしは、「わたしが感じていること」と「夫が感じているだろうこと」と「どこまでも未知で、立ち入れない他人の夫」の三者で旅をしていたのです。

 

 

その「混ざり合い」と「揺らぎ」がおもしろかった。

 

 

「混ざり合い」と「揺らぎ」のなかに、夫婦が長い時間をかけて作ってきた「おかしみ」と「安らぎ」と「慈しみ」がありました。混ざり具合によっては、ちょっとした喧嘩も生まれたりして。

 

 

紅葉を見ながら、「ああ、ここ、この景色!」と思った瞬間にわたしは、「きれいね」という言葉を、わたしと夫の「間」に置く。

間に置かれた「きれいね」という言葉を夫が静かに手にとるように、黙ってうなずく。

 

 

「間」があるというのが、よかったなあと思います。自分だけじゃなくて、夫との「間」。空間としての「あいだ」も、時間としての「ま」も、どっちもよかった。人と人が一緒にいて生まれる「間」はかけがえがないな。

 

 

ほかの誰かと決して一つになれないからこそ必然的に生まれてしまう「間」。そこに、あらゆる、はかなくて美しいものが詰まっていると思う。

 

 

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★こちらにも書いています→心震えた。「聞き手としての自分がいるから一人ではありません」