大学生のキャリア教育や実際の就職活動なんかでも頻繁に使われる「コミュニケーション力」という言葉。

 

 

わたしも仕事の文章では、便利なのでよく使いますけど、どうも「物怖じせずに自己主張する力」や、「人前で堂々とプレゼンテーションする度胸」、もしくは「次々と豊富に話題を繰り出して会話や場を盛り上げ、リーダーシップを発揮している風に見せること」などのイメージが強くて、ちょっと現実離れしているというか、スタンドプレー寄りというか、相互交換的でなく一方通行的というか、「本当にそれがコミュニケーション力なのだろうか?」「それで信頼が得られるのだろうか?」と疑問に思います。

 

 

そもそも「コミュニケーション力」という言葉が曖昧でよろしくないのではなかろうか。もっと泥臭く「すり合わせ力」のほうがいいんじゃなかろうか。「すり合わせ力」なら、プレゼンなんて特別な場じゃなくても、日常のなかでいつでも、どこでも、誰とでも必要だし、発揮できます。

 

 

たとえば、わたしの娘は、いまは親元を離れているので一緒に出掛けることはありませんが、友だちのなかには「んもー。一緒にショッピングなんか行くと、娘のペースで疲れる。中高生ぐらいまでは自分が引っ張っていけたけど、最近は、立場が逆転してきてグイグイ引っ張る。ときには、親を馬鹿にする。腹立つ」と愚痴る人もいます。

 

 

わかるーー。それ、わたしも娘が大学卒業前後から感じてたーー。これは、もう、親のペースで何事も進められる時期が終わってしまったことを意味しているので相互に「すり合わせ」が必要になってきたということですね。娘のやりたいこと、親である自分のやりたいこと、興味のあること、ないこと、知っていること、知らないこと、体力の有無、集中力の有無…そんなこんな、もろもろ。このあたりを小出しにすり合わせをする習慣をつけておかないと、「孫の世話一挙引き受け疲労困憊自分の時間皆無」とか「どうせなら二世帯住宅にしようよ娘もしくは息子一家提案、不承不承合意後不本意同居開始」とか「お母さんのその恰好ダサい爆笑フン何さ馬鹿にするな憤慨」とか、なんかいろいろ不具合が起きてきます。

 

 

もちろん、親と子に限りません。あっちでも、こっちでも、あの人とも、この人ともそう。「コミュニケーション力」という曖昧な能力でなく、互いの要望をひとつひとつ提示して解決もしくは納得してよりよき妥協に導く「すり合わせ力」、本当に重要なのです。

 

 

わたしなんか、問題が大きくなればなるほど「何も言わないでもわかってほしい」という願望が大きくなる傾向があります。「わかってくれるだろう」という希望的観測にすがって楽をしたいと言ってもいい。たとえば、リフォームとか。自分の頭のなかにある漠然とした素敵イメージを「何も言わないでもわかってほしい」なんて思う。いわゆる「丸投げ」。さすがにパーフェクトとはいわないまでも、「好みじゃないものはさすがに提案されないだろう」と思うけれど、そうは問屋が卸しません。言わなければ、やっぱり見事に伝わっていない。

 


夫婦関係もそうですよね。何も言わなくても人生の幸せを分かちあえるなんて、モノが人生という大物だけに難易度が高すぎる。「これぐらいわかってくれるよね」「わかってほしい」をお互いにきちんと伝えないまま、つい一緒に生活しがちです。わたしたち夫婦も、夫が倒れるまでそうだったかもなあ。

 

 

つまるところ、あきらめたり、怒りをためこんだり、突然抗議したり、見切りをつけたり、耐え忍んだりすることよりも、毎日毎日、細かいことをあきらめずに伝え、伝わらない場合は伝え方を工夫することのほうが面倒くさい。面倒くさくて根気がいるし、十分に気をつかったつもりでもうまく伝わらずに感情的にぶつかって嫌な思いをすることもあるし、やりたくない。気が重い。腰も思い。でも、そんな「すり合わせ」こそがコミュニケーションの要なんですね。「交渉」の根本もここにある。タフ・ネゴシエーションの「タフ」の意味するものもここにある。自然にできるようになりたいものです。

 

 

年齢とともにあきらめやすくなりがちだけれど、温和で粘り強い「すり合わせ力」を身に付けたい。その前に、自分とのすり合わせも必要なんでしょうね、たぶん。

 

 

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