幸田文の「番茶菓子」におさめられた「おしゃれの四季」という中の一編に「ことぶき」というお話があります。

 

 

だれもがひと目見て「きれいなひと」という真佐子さんは、「別に御器量がいいというのでないし、御衣裳もそう格段というわけでもないのにどうしてああ美しく見えるのでしょう」というような人で、その理由を主にお姑さんとの関係にたどるというものです。

 

 

真佐子さんは三人兄弟の末っ子のお嫁さんで、上の二人の家庭ほどお金持ちではない。だからお姑さんの誕生日の贈り物にもお金はかけられないのです(お兄さんたちは、小袖を一枚新調してプレゼントしたりする)。結婚一年めは、自分で襦袢を仕立てて薄鼠色にし、さらに外から見えないところに亀甲模様を一列に絞り、朱色に染めて贈りました。←これがもう、気が遠くなるほどすごい。

 

 

それがとても喜ばれた数年後の誕生日、病み衰えたお姑さんが「もう一度、襦袢がもらいたい」と言うのです。真佐子さんは考えたあげく「襦袢はそっけないと思ったが無地に決めた。できあがった襦袢をきちんと畳んでその上へ真佐子さんは赤い寿という字を置いた。へたでも一しょう懸命に別布に刺した絽刺しの赤い字なのである」。

 

 

受け取ったお姑さんは、言います。「あたしも無地の襦袢が来ると思っていましたよ。もしも一度、朱の絞りが来るようだったら、あなたにはまだほんとのおしゃれがわかっていないのだけれど…よかったこと!」と。

 

 

おそろしい。

 

 

時代が違うことや、なんやかんや言っても上流の人たち、ということを別にしても、おそろしい。初めて読んだときは、「ふーん。大人のおしゃれって、こういうことか」と漠然と思ったけれど、十分すぎるほど大人になって読んでみると、改めて、おそろしい。

 

 

「わたしに贈る襦袢とは何ぞや」と謎をかける姑の腹にはすでに答えが用意されており、考え抜いた末に見事、正解してみせる嫁。「おしゃれとは、畢竟、何と心得る?」という微笑みの下の眼光鋭い問いかけと品定め。

 

 

ある時代までの、ある階層の嫁姑は、こんなふうに真剣勝負していたのか。そして「おしゃれ」とは、人生をかけて勝負する「総合芸術」的なものなのか。

 

 

先日、友だちが何かの拍子で「一番気が利く人が、一番人が悪いよ」と言っていましたが、この短編には、そんなおそろしさがある。おしゃれの魅力も、ふとしたときに匂いたつ毒気も、この「品定めを逃れられない性」にあるのかもしれません。

 

 

わたしだったら、「絽刺しの赤い寿」をどうしたらいいものか。飾るに飾れず、捨てるに捨てられず、困るな。いや、襦袢の上に大事に置いておけばいいのか。

 

 

★こちらにも書いています→人生のテーマは、「気になることがあっても普段どおりに暮らす」