遷延性意識障害、いわゆる植物状態で療養型病院に入院している夫とは、オンラインを除くと月に一度、5分間だけ面会が可能です。

 

 

6階にある屋上庭園に面した広々としたリハビリ室の奥に車いすに座った夫がいて、その前に透明ビニールのカーテン。その手前に椅子があり、そこにわたしが座ります。毎回、理学療法士さんが守るべきことを説明してくださり、面会が始まります。

 

 

わたしは、意を決して「パパーー。来たよーー。今日は、目が開いているねえー!」などと明るく元気な声を出します。ときには理学療法士さんに「今日は元気そうですね!」などと弾んだ調子で話しかけます。理学療法士さんは、「そうですね。午前中からしっかりされていますね。今日は熱もありません」などと、これまた感じよくハキハキと答えてくださいます。

 

 

「桜が咲いているよー。春なんだよー!」とか「梅雨で雨続き。スーの散歩の大変だよー!」とか「コロナが流行っていてえねえ」とか「東京オリンピックやっているよ!」などと話題を探して話します。答えはありません。

 

 

「あ。写真撮っていいですか?娘に送るので」と毎回、不意に名案を思い付いたように元気に言って立ち上がります。間がもたないからです。理学療法士さんは、「はい!」と快くOKしてくださって逆光にならないように夫の向きを変えたり、「こちらのほうがもっとよく写るのでは?」などと言って導いてくださいます。わたしは、いそいそとスマホを取り出して撮影します。写真は、娘に送ることもあれば、送らないこともあります。痩せた姿を見せることにためらいがあるからです。

 

 

いつも、どこかドラマや映画で見た「刑務所での面会」のようだな、昭和のワイドショーでしばしば見られた衝立の向こうから話す「人生相談」のようだなと感じるのは、看守やテレビの出演者など「他人が見つめるなかでプライベートな会話を交わす不自然さ」を感じるからでしょう。夫からの返事はないので、わたしの、少しも「わたしらしくない呼びかけ」だけが、広いリハビリ室に響きます。わたしは、人生経験が決して豊富ではないけれど、「空虚に響く声」だけは誰よりも聞いている。そう思います。

 

 

あまり自分のことを大げさに嘆きたくないけれど、コロナウイルスがわたしたち夫婦から奪ったものは、「会話」です。いわゆる音声を用いた「会話」ではなく、わたしたちの本来の会話としての「沈黙」です。よく「耳元でささやいたら、きっと聞こえているよ」なんて言いますが、そうやって声になった「語りかけ」は、夫の返答がこちらに一切の変化をもたらさないという意味において、多少なりとも意図的で、演技性があり、選択された自己満足的な「優しさ」の域を出ません。

 

 

わたしにとって本来の「語りかけ」は、沈黙であり、沈黙したまま隣に座り続けることにありました。そして、硬くなる腕や足を伸ばし、常に強く握っていることによって独特の匂いのする手のひらを伸ばして拭き、その匂いを手に付けたまま家路につくことでもありました。

 

 

「また、そんな日が来ますように」と願っているのかと問われたら、「少し怖い」と答えます。

1年半のブランクがもたらした変化に直面するのが怖いし、月に一度、道化のように不自然な語りかけをする居心地の悪さを我慢しさえすれば安楽に過ぎた日々を終えるのも怖い。

 

 

もし、わたしが椅子からすっと立ち上がり、ビニールを静かにめくって夫の手を握ったとしたら…。その、なんということもないありきたりな行為は、いま、この状況下では、羽交い絞めにされるに違いない暴挙です。心のなかだけで、その場面を、まるで演劇を見るように想像します。

 

 

以前から続けているこちらのブログは、もう少し軽いことを書いています。よかったら、お読みください。