毎週水曜日にこのブログを更新することにしていますが、なかなかサクサクとはいきません。

 

 

「あー。書くことないなあ」から始まって、しばらくパソコンの前にじっと座っていると「別に、誰かに待たれているわけでもないだから」という至極まっとうな心の声が聞こえてくるし、「ほかにやるべきことがあるんじゃない?」という思わずうなずきたくなる声も聞こえてきます。こんなときに「聞こえてくる心の声」って、どれもこれも痛いところを衝いてきてものすごい説得力があるんですよね。「こんなことしていても意味がない」とか「なんの得にもならない」「いったいいつまで続けるんだ?無意味だろ」とか、ギャー!耳がいたーい!そして落ち込むー!ほんと、すぐにも従いたくなる。従った先にあるのは、「やめる」ということなんだけども。

 

 

だが、もう一つの真実もあるのです。それは、こうやって書いていきさえすれば、一行ずつ文字は埋まり、あと数十行埋めていけば、公開できるということ!つまるところ文章は、文字の連なり。がんばれ、わたし。

 

 

「独学大全」が20万部を超えるベストセラーとなっている読書猿氏が、「ライティングの哲学」という本のなかで、こう書いています。

 

 

ヒトとしての成熟が、「自分はきっと何者かになれるはず」と無根拠に信じていなければやってられない思春期を抜け出し、「自分は確かに何者にもなれないのだ」という事実を受け入れるところから始まるように(地に足のついた努力はここから始まる)、書き手として立つことは、「自分はいつかすばらしい何かを書く(書ける) はず」という妄執から覚め、「これはまったく満足のいくものではないが、私は今ここでこの文章を最後まで書くのだ」と引き受けるところから始まる。  

 

これは自分の可能性についての断念ではない。有限の時間と能力しか持たない我々が、誰かに押し付けられたわけではない自分に対する義務を果たそうという決断である。

 

 

ああ、なんだか、とても素敵。

 

 

「自分はいつかすばらしい何かを書く(書ける)はず」という妄執から覚め、「これはまったく満足のいくものではないが、私は今ここでこの文章を最後まで書くのだ」と引き受ける。それは自分に対する義務を果たそうという決断である。そうか。そうなのか。

 

 

この「ライティングの哲学~書けない悩みのための執筆論」(読書猿、千葉雅也、山内朋樹、瀬下翔太著)は、「とりかえしのつかなさ」や「諦め」を肯定することから始まる「老いの受容」とつながる味わいがあり、ライティングに興味がなくても、人によってはおもしろく読めると思います。(ただ具体的な文書作成ソフトについての言及が多めなので、そこは退屈か)

 

 

ちなみに上の引用は、キンドルからコピペしたのですが、普通にコピペすると半角スペースがたくさん入って読みづらいのをご存知でしょうか。それを解決する方法を見つけたので、書いておきたい。引用したい行に色をつけた(ハイライト)あと、amazonキンドルのメモとハイライトというページにアクセスすると、その箇所がズラリと保存されてあり、ここでコピーすると半角が入らないのです。

 

 

「書けない」とは単なる無能力というより、そうした苦手意識と先延ばしの悪循環の中に囚われの身となることを言うのだ。

 

 

やっぱり、耳が痛い。