夫が入院する病院には、1時間に一本、最寄り駅から出る無料送迎バスがあります。コロナウイルス流行前は、面会に通う高齢女性で満席に近い状態でした。いまは、みんなバラバラな時間に通うようになったため、バスはガラガラ。わたしが乗る時間は、いつも白髪の上品な奥さんとわたしだけです。
上品な奥さんは、運転手さんとわりに仲良しで出発時間を待つ間、訥々と話しかけます。
「高いってわけじゃないんですけどね。気に入っている日傘が…ほら、見てください。骨が折れてしまって」低音であまり抑揚のない平坦な口調です。
「ほんまや!2本折れてますな」運転手さんは、大きく体をひねって振り返って言います。対照的に大きくて抑揚のあるだみ声です。
「そうなんです」小声
「ええ傘ですな。骨の多いタイプ?」大声&抑揚
「はい、骨が多いですね」
「買い替えるか、修理してもらわなあきませんな!」
「そうなんですけどねえ」
「今も、修理してくれるとこありますやろ」
「昔は、どこどこの商店街にありましたけど」
「ああ、ありましたなあ!」
「なくなりましたね」
「奥さん、スマホ、持ってませんやろ?」大声
突然放り込まれた、揺るがぬ確信に根差した問いかけという名の決めつけ!
「持ってます」小声
そう、持ってます。病院のロビーで看護師さんが洗濯物をもって降りてくるのを待つ間、わたしは見たことがあるのです。上品な奥さんが、バッグのなかからおもむろに小さな花柄のハンカチの包みをとりだし、指先でつまんで開くのを。「なんだろう。何が入っているんだろう。お菓子かな。飴かな」…と見ていたら、きれいなスマホが出てきたのです。女性が触れると画面の上部に大きく時間が表示されます。保護シートを貼ったり、ケースに入れたりするかわりに傷つかないようにハンカチにくるんだのでしょうか。「スマホを布で包んで持つ」というのが新鮮だったのと「丁寧だけどドンピシャではない感じ」が、おっとりしたこの人らしくて印象に残っています。
「持ってはる!?スマホ!?」
「はい」
「ほな、『傘』って入れて調べたらよろしいねん。『傘 修理』でもええわ」
「ああ、そうですか」
上品な奥さんは、別段、気を悪くしたようでもなくバスは出発し、病院に到着。次は、病院を出発して駅まで送ってもらいます。
「奥さん!ありましたわ。梅田に!ほら、あの高架下。わかります?場所」運転手さんは、マイスマホで検索していました。
「はいはい。わかります」
「その傘、持っていくの忘れたらあきませんよ」
「そうですね(笑)」
「傘、忘れんように持って行って、名刺の一枚ももろてきたらよろしいねん。また次、修理するときに役立ちますやろ」
「はい」
「暑いから、午前中に行ったほうがよろしいね。11時からやから開店と同時に行くのがいい」
「そうですね」
運転手さんは、この日が最後の勤務でした。「今日までがんばって勤めさせてもろてね。明日、起きたら『ああ、プー太郎や』て落ち込むでしょうな。食うていかなあかんから、また仕事探さなあきませんわ。この年でなかなかないやろうけど。ま、しばらくは食うに困りませんけどね。カップラーメン買い込んだあるから(笑)!」
上品な奥さんは、「そうですね。体のためにも、気持ちの張り合いのためにもね、お仕事は」
運転手さんの「食うため」という言葉を、奥さんは「体のため、気持ちのため」という生きがい方向に注意深く変換して話を続けます。
わたしは、運転手さんとは挨拶や天気の話ぐらいしかしてこなかったし、いつも黙って乗ってきただけだけど、なんか、急に名残惜しいような、病院の上層部に「いい人ですから、もっと雇っておいてください」と直談判したいような気持ちになりました。
「本当にありがとうございました。お世話になりました。暑いですから、コロナにも夏バテにも気をつけてください」降り際に挨拶すると、
「こちらこそ、ありがとうございました。奥さんもね、気をつけてね」
いつも、どこか年下のお嬢さんに話しかけるような口調で接してくれたのは、「あなたは、ここでは最年少でいたいんでしょ。その思いに応えてあげますよ」という運転手さんの鋭い洞察と思いやりだったのではないだろうか。あと、いつも大声だったのは、私にも会話をオープンにしてくれていたのかも。
相手にあわせて対応を変える繊細さと、しばしば見せる強引なおせっかいと決めつけ。まだ誰も乗っていないバスの運転席で乗客を待つときの完全にスイッチを切った暗い表情…この人の人生は平坦ではなかったのだろうな。
バスを降り、上品な奥さんと会釈をして別れました。
運転手さんも、この奥さんも、わたしも「一人の家」に帰ります。