ウェブマガジン「どうする?Over40」カイゴデトックスでも、少しずつ「自分たちの老後をどうするよ問題」が熱く語られるようになってきました。それにしても人生って、いつだって不安と背中合わせ。「老い」という未知の世界を冒険するわけだから、当然か。五里霧中だな。

 

 

先日、近所の人からこんな話を聞きました。

 

 

その人は70代前半なんですが、将来が不安だという60代半ばの友だちがさんざん悩んだあげく、比較的安価なケアハウスに入ったら、まわりが20歳ほど年上の人ばかりで、食堂でごはんを食べるのもユーウツ。お風呂も自由な時間に入れないで部屋にこもってばかり。さらにコロナウイルスが追い打ちをかけ、施設自体が閉鎖されて自由に外出もできなくなり、だれにも会えなくなってしまった。「『お菓子を買ってきて』と頼まれて面会に行ったら、めちゃめちゃ老けててびっくりした。早く施設に入るのも考えものよ」。その友だちは、家族仲が悪く、子どもには決して頼れないと言っていたそうで、老後に強い危機感があったのだそうです。

 

 

将来を考えて「安心」を手に入れたはずが、「老い」を先取りする結果になってしまったのか。

 

 

わたしたちは、自分のことなのに「老後」を考えようとすると、つい抽象的な「老い」を考えてしまって、あれも不安、これも不安となってしまうんですよね。しかし、抽象的な老いなんてどこにもなく、個別の「老い」を生きるしかない。病気になる場所も個別、動かなくなる場所も個別。楽しみも、喜びも、やりたいことも、何もかもが「自分」という一人の人間に起こる具体的なものなのです。

 

 

自分を知らなければ、自分にとっての幸せな老後は手に入らないのだ。「こんなとき、自分は何を思い、何にストレスを感じるのか」とよくよく想像しなければいけません。そうでないと「我慢と妥協」の無間地獄がやってくる。

 

 

昨日、長崎に住む姉が突然電話で「もう、この家、売る!そしてマンションに移ることにした!」と言ってきました。唐突のようですが、実は、かなり前から、「この家、どうしようかな」「このままやったら、あっちゃん(わたし)に負動産を残すことになる」「また、草ボーボーになってきた。シルバーセンターにお願いせんば!」「広すぎて2階は、何も使わんよ」と言い続けていたのです。それが、かつてリフォームをお願いして以来、小さな修繕や不用品処分を引き受けてくれている人と話していたら、「僕、この家、買いますよ」という言葉が出てきたそうで、姉は俄然、売りたくなったというわけです。もう、不用品の処分も一切合切お願いして身軽になろうと。

 

 

まあ、詳細はこれからですし、どうなるかわからないけど、シングルの姉が「コンパクトで便利で快適で安全な家に住み替える」のはとてもいいと思います。

 

 

姉ちゃん。実家にある懐かしい家具も小物も、わたしたち家族が過ごしたたくさんの思い出も何もかも、気持ちいいぐらいあっさりと捨ててくれていいよ。そして、瞳を輝かせ、雄々しく、次のステップに進んで人生を楽しんでくれ。思い出は、心のなかにある。目を閉じれば、鮮やかによみがえる。そして会うたびに二人で懐かしんで語り合おう。もう、それだけで十分だ。

 

 

クロワッサンオンラインに、「戸建てから駅近のマンションへ。上野千鶴子さんのおひとりさまライフ。」という記事が載っていました。各階にゴミステーションがあると書いてあって、そそれがうらやましい!さっそく「姉ちゃん!上野さんの選んだマンション、ゴミ捨てが便利よ!」と伝えておきました。

 

 

姉は、いま、72歳。住み替えの決断には、ちょうどいい年齢だと思います。知力も体力も充実している年齢です。姉は、わたしと一回り離れているので、ちょうどわたしの12年後。12年なんてあっという間だな。わたし、どんな決断をするんだろうか。そもそも、できるんだろうか。ともかく、いろいろ考えつつ、暮らしていこう。