昨年の8月からシンガポールで働く娘に「電話したことがない」というと「まじでー?」と驚かれます。LINEだったら無料でできるし、話そうと思えばいくらでも話せますもんね。でも、メッセージや写真はまめに送るけど、わたしから電話したことは一度もない。意識したことなかったけど、そういえばなかった。

 

 

娘からは、2か月に一度くらい「道を歩いている途中」や「メイクしながら」など、時間をつぶしたいときにかかってきて、そのときは、忙しくても眠たくても好きなドラマを見ていても、電話を優先してじっくり話すようにはしています(主にお笑いや映画の話なんだが)。

 

 

昨年の暮れ、娘の仲のいい友だちのお母さんが「サキちゃん(娘)も大変やったね。なんとかなってホッとしたわー」と声をかけてくれました。娘が何かやらかしたことをインスタかなんかで見て心配してくれたのでしょう。な、なんだ、何をした?私は娘のインスタを知らないので、いったい何が起こったか皆目見当がつきません。さすがに心配になって娘に聞こうかなーと思ったけど、結局、今日まで聞かずじまい。それから何事もないので、まあ、なんとかなったのでしょう。

 

 

わたしが「心配」という感情とアクションを、よほどのことがない限り発動させないのは、娘の仕事や恋愛や暮らしぶりなど、若いゆえに混沌としがちな体験の「純度」(混沌とした散らかりっぷりといってもいいです)をできるだけ下げたくない、という気持ちがあるからです。

 

 

自分自身が若いころ、「親に報告しながら体験する」と、体験の意味や質が変わってしまうと感じていました。親に限らないかもしれないな。友だちにも逐一報告したり、相談したりすると、いままさに自分が体験し、考え、悩み、方向を定めて行動しようとしている、そのことの意味がビミョーに変質し、純度が低下し、方向性が常識的な方向に変わってしまう気がしていました。端的にいうと、ほんの少しだけ「人生がつまらなくなる」と思ったのです。

 

 

仕事に向き合うときには、誰だって「やる気」や「真面目さ」だけがあるのでなく、「怠惰」や「退職」「さぼり」の誘惑がつきまといます。恋愛にも「ハッピー」や「ワクワク」や「うれしさ」だけがあるのでなく「がっかり」や「いいかげん」や「ぐずぐず」や「よそ見」なんかががつきまとう。そこらへん、ぜーんぶ、純度高く体験すればよろしい。「ああ、わたしってなんてダメなんだろう!」と布団かぶって一日起きられずに自己嫌悪に陥ればよろしい(←若い頃のわたしの得意技でした)。

 

 

そこから自分をコントロールし、道をはずさずに生きていく自前の「克己心」みたいなものを養ってくれたらいいなーと思います。ま、養えるか否かは本人次第ですけどね。

 

 

心配しないかわりに、娘の部屋の北側のベランダに花を植えました。クリスマスローズを植えたプランターに近所の人にもらったあじさいの枝をグサッと挿したら、なんか、脇から薄緑の葉っぱが出てきているみたい!ああ。こんなことなら、大きめの鉢に挿したらよかった!

 

 

家を出たときより、自分の部屋が少し居心地よく美しくなっていたら、うれしいのではないだろうか。「おかえり。これまでがんばったね。母さんも元気に過ごしていたよ」と伝えられるのではないだろうか。はは。いじらしい母親ですな(笑)