こんにちはスタルペスです

 

久々の投稿ですが、前回の北九州市訪問の続きです。

 

北九州市での古墳と遺跡巡りに最後に、カレーが食べたくて門司港に来ました。

長年、北九州市の市議会議員をしていた叔父が門司区に住んでいたので、子供のころからよく遊びに行っていたところです。

でも、叔父も亡くなり、数年前には叔母も無くなったので門司区には足が遠のいていましたが、今回はせっかく北九州まできたので門司港まで足を延ばすことにしました。

 

 

 

※門司レトロのシンボル「JR門司港駅」

 

 

 

※JR門司港駅のホーム(今の駅と違って広々としたホームです)

 

 

 

※JR門司港駅の切符うりば(左の扉は「みどりの窓口」)

 

 

 

門司港は、今やレトロな街並みや建物が人気の観光スポットになっています。

家内とお付き合いをしていた頃なので、もう42年くらい前になると思うのですが、ここ門司港の三井倶楽部のレストランで「焼きカレー」を食べたことがあります。あの「焼きカレー」も今や北九州の名物グルメとなっています。

昔は、あまり気にも留めなかったJR門司港駅が門司レトロの象徴の建物になっていて多くの観光客の方たちでいっぱいです。

コロナの5類移行後からの人流も今はピーク、外国人や外国人らしき人たちもいっぱいいます。

 

 

 

※旧門司三井倶楽部

 

 

 

※庭の薔薇が色を添えています。

 

 

 

この日は、「ハンドメイクデイズ」という催しがされているようでいつもよりも多くのお客様がきているようです。

 

 

 

※この日はさまざまな手作り品のお店がたくさん出店していて賑やかでした。

 

 

 

※門司港の街って昔からこんなに海が近かったかな?

 

 

 

JR門司港駅をひと通り観察(?)して、少し早いですが「旧門司三井倶楽部」に行ってレストランが空くのを待つことにしました。

「旧門司三井倶楽部」は1921年(大正10年)に三井物産の社交倶楽部として建てられ、戦後は財閥解体とともに当時の国鉄に買収され、1990年(平成2年)に北九州市に譲渡され、現在の場所に移築されたそうです。

 

 

 

※あの高いビルは「門司港レトロハイマート」というマンションだそうです。

 

 

 

やっぱり、そうだったんだ。昔、家内と焼きカレーを食べに来たときはこの場所では無かったように思ったので、以前私たちが来た時は、移築前の三井倶楽部に行っていたとこになります。

 

 

 

※今や「バナナの叩き売り」っていうのを知らない人の方が多いと思うけど・・

 

 

 

※バナナマンとバナナマンブラック(どっちが日村??)

 

 

 

今はJR門司港駅の駅前と言ってもいいところに「旧三井倶楽部」の建物はあります。

この日は春のバラか咲いていて、素敵な香りを漂わせていました。

洋館と薔薇、絵にかいたような優雅な佇まいです。

 

さぁ~40年ぶりの焼きカレーを食べようと気負ってここまできたところ・・・・

折り畳み式の立て看板に「貸し切り中」と書いています。

ガーン、ガーン、ガーン、ガーンの3連発・・

・・・・

・・・・

失意の中、家内とあてもなくレトロ地区を彷徨います。

すると・・・こんなところに帆船の「日本丸」が停泊しています。

えっ・・なぜ?? ここが母港?? んな訳ねーか? 

 

 

 

※帆船「日本丸」、なぜここに?

 

 

 

「帆船日本丸」は海洋国家日本を代表する高速帆船です。そんなエース級の帆船がなぜ、こんな地味なところに停泊しているんだろう!!と思いながら、その優美な姿に見とれていました。

 

 

 

※やっぱり「日本丸」だ!!

 

 

 

若い頃、商船三井の「にっぽん丸」という船で中国に行ったことがあります。福岡県が主催する「青年の船」という事業でした。

でも・・・同じ「にっぽん丸」でも帆船の「日本丸」にはかないません。この「帆船日本丸」は、海洋国"ニッポン"が、世界一の海洋国であり続けるための「海人」を育てるためになくてはならない船なのですから。

 

 

 

※「日本丸」の船首には「藍青(らんじょう)」という女神像です。

 

 

 

「天気晴朗なれど波高し」の秋山真之がバルチック艦隊を撃破したように、この練習船で学んだ海洋技術者たちが、潮を読み、風を読み、波を読み 日本海や東シナ海に侵入してくる外国船から我が国の領土を守ってくれることを信じています。

 

 

 

※船尾のほうも・・

 

 

 

※4本マストに帆が張られると美しいだろうなぁ~

 

 

 

「帆船日本丸」に見とれているあいだに、家内がどこかに行ってしまいました。

たぶん近くのお店に入っているのだと思います。

 

・・・

 

今日は、ここ門司レトロ地区にきたので、ここだけは行っておきたいという所があります。

ようやく家内と合流し、目的の場所に向かうことにしました。

 

そこは、門司レトロ地区の端っこの少し外れてたところにある「門司電気通信レトロ館」です。

今の私を作ってくれた、思い出がいっぱい詰まっているところです。

 

 

 

※NTT西日本の「門司電気通信レトロ館」です。

 

 

 

1924年(大正13年)に逓信省門司郵便局電話課庁舎として建設されました。

 

 

 

※建物と所蔵品は平成20年度に経済産業省より「近代化産業遺産」として認定。平成25年には北九州市より「景観重要建造物」として指定

 

 

 

私のハンドルネーム「スタルペス」の答えもここにあります。

スタルペスと聞いてその意味を理解できた方は、私と同業の方たちしかいないと思います。

 

 

 

※これはロケットの模型ではありません。通信ケーブルのサンプルです。

 

 

 

スタルペスというのは、通信ケーブルの種類です。

私が入社した昭和53年の地下ケーブルで主流となっていた通信ケーブルが「スタルペスケーブル」だったのです。でも実は入社した当時からスタルペスケーブルは時代遅れの通信ケーブルと言われていたのですが、令和の今の時代になってもまだ使われ続けている”しぶとい”通信ケーブルです。

 

 

 

※「鉛管」っていいます。「かしめ機」もあります。若い頃は昼休みに「鉛工」というこの鉛管をつくる練習をしていました。今は鉛は身体に良くないので廃止されています。

 

 

 

私がこのブログのハンドルネームを「スタルペス」としたのは、「時代遅れなのに今も現役」という自分と重ね合わせてみた名前にしてみたことからです。

 

 

 

※今も昔もマンホールの蓋です。鋳物でできています。「電電公社」のマークです。

 

 

 

私が現場業務を行ったのは、10年弱の期間です。その後は主にシステム開発やサービス開発の分野に配属されました。でも、一番の思い出は入社してから10年間の現場勤務の時代が一番思い出深いものでした。

 

 

 

※地下ケーブル各種。スタルペスケーブルは銅線を紙で巻いていました。

 

 

 

ここ、門司電気通信レトロ館には、私の青春時代の全てが”ぎゅー”っと詰まっています。

最初の配属地はここ北九州市内の電話局でした。電話工事、電話修理などを行ってきました。

 

 

 

 

 

 

当時の標準的な電話機はこの門司電気通信レトロ館にも展示されている600と言われる黒電話が中心でした。

大量開通時代は、この600黒電話が中心でした。

故障修理班になったときに、よく修理したのは600黒電話機よりも。ひと世代前の型式の黒電話「4A電話機」が多かったと記憶しています。

 

 

 

※600形黒電話です。当時は部品一つ一つを修理していました。今は故障すると丸ごと交換です。

 

 

 

 

※1世代前の4A電話機です。最初の黒電話といわれるものです。

 

 

 

この当時は、警察署や学校や企業では専用電話として、「41M」という手回しの電話機が多く使われていて箱型の電池交換によく行っていました。

 

 

 

※41M電話機は専用線の手回し電話機です

 

 

※41M形電話機はハンドルの回転が重くなると電池交換です。

 

 

 

公衆電話もよく修理に行きました。タバコ屋さんの前に置かれている印象のある「赤電話」は「670」や「671」公衆電話機と呼ばれるものでした。よく10円玉が詰まってしまう故障が多くことがよくありました。

 

 

 

※左が670形、右が671形です。670形の方が古い赤電話です。

 

 

 

スナックや飲み屋さんで多かったのが「675」のピンク電話でした。

ピンク電話は公衆電話ではなく、黒電話と同じように一般の契約で取り付けられる電話機でした。

あ~ なつかしぃな~ 涙がでそうになります。

 

 

 

※私の現場時代は左の675形でした。671形の赤電話と同じ構造です。

 

 

 

私が北九州市の電話局にいたときは、交換機はクロスバー交換機が主流でしたが、まだステップ・バイ・ステップ式の交換機も使われていました。

ステップ・バイ・ステップ式の交換機とは、交換手を介さずに自動で相手先に電話をすることができるようになった最初の交換機です。

 

 

 

※このサンプルはA形の展示ですが、北九州の電話局はH形交換機でした。

 

 

 

昔、我が国の自動交換機には「A」と「H」の2種類があり、北九州は「H」が使われていました。「A」はアメリカ製の交換機、「H」はドイツ製の交換機でした。電話機のダイヤルの回転速度の遅いタイプA1、早いタイプをA2と言っていました。同じ黒電話でも600-A1と600-A2がありました。A1の電話機はステップbyステップ式の古い交換機につながっている電話機になります。

ダイヤル速度の速いA2電話機は、クロスバー交換機に収容されている電話番号でなければ使えなかったのです。

 

 

 

※オー!! 600P形のプッシュダイヤルの電話機です。奥には切替器があます!!なつかしー

 

 

 

お客様から回転速度の早いA2に変えてくれと言われることがよくありましたが、お客様の市内局番はH形交換機なのでA2にはできませんとなんども断った記憶があります。

 

 

 

 

※600形の次世代601形電話機です。下がダイヤル式、上がプッシュ式です。

 

 

 

私が勤める電話局の管内には、北九州市という都会の電話局なのに唯一有人離島の「藍ノ島」と「馬島」がサービス提供エリアでした。

当時は若松区から海底ケーブルが引かれていて、このケーブルを船のアンカーや砂取り船が切ってしまう事故がたびたび発生していました。

 

 

 

※おーっ シルバーフォン「あんしん」当時の録音はカセットテープです。

 

 

 

スピーカーホンです。当時は電話機にスピーカやマイクはついていなかったので電話会議ができる画期的電話機でした。

 

 

 

※高音量ベル(上)とフラッシュベル(下)です。いづれも工場や作業場で使用します。騒音のある場所では光で着信をしらせるフラッシュベルが効果的でした。

 

 

 

その度に私たちは漁船をチャーターして通信が孤立した離島へ向かいます。

長崎から海底線を敷設する船が来るまでの間、無線で最低限の通信を確保します。島には高さ30mもある無線の電柱が立っていて、何度か工事のため登ったことがあります。鋼管組立柱という電柱は上まで来ると、ものすごく揺れるので安全帯をしていても、手を離すことが怖くて離せなかったことを思い出します。

 

 

 

 

※左は、初期のホームテレホンです。電話番号は1回戦で電話機を4台取り付けられます。

 

 

 

※魚屋さんの壁掛け電話機の修理に行ったとき、この電話機を開けるとゴキブリの赤ちゃんが何十匹も出ていて驚いたことがあります。

 

 

 

 

※これは、ファックスです。取付は私たち若手社員に任せられていました。

これくらいからベテラン社員は技術についていけなくなっていました!!今も40年以上前も同じです。

 

 

 

その後、大分県内の電話局に転勤したときは、電話機やビジネスホンの工事も多かったけど、電柱を建てたりケーブルを敷設したりという大がかりな工事も日常的に行っていました。

この、門司電気通信レトロ館に「ブランコ」と呼ばれる「宙乗機」という道具が展示していました。

 

 

 

※門司電気通信レトロ館に展示していた「宙乗り機」。これはずっと昔のものです。

 

 

 

 

※宙乗り機の使い方です(中部電力様のHPより)。今は電動モーターがついているそうです。

 

 

私たちの時代には金属と板で作られていましたが、この宙乗り機に乗るのが若くて体の小さい私の役割でした。

深い谷の下に川が流れていて、対岸と対岸にケーブルを引くためにはカテナリという技術を使います。

そのカテナリにケーブルを敷設するために、この宙乗り機に乗って”ストランド”と呼んでいたワイヤーにケーブルを手作業で取り付けていく作業です。対岸から対岸までまさにサーカスの様に空中を移動していきます。

 

 

 

 

※これは676形たったと思います。入社時には電話ボックスやキャビネットの公衆電話は青色だったと思います。

 

 

 

※これは青形の後にボックス公衆電話に採用された673形公衆電話です(重たかった~)

 

 

 

※キャビネット用の公衆電話も黄色になりました。(677形です)

 

 

 

 

※黄色の次世代公衆電話は緑色に変わります。テレホンカードの利用も緑色(MC形)から始まりました。

 

 

 

谷の真ん中まで来ると、谷底の川まで何十メートルの高さがあり、下を見るだけで震えあがってしまいます。

一歩間違えれば谷底に落下し即死は間違いありません。まさに死と隣り合わせです。

 

 

先輩たちが両岸からロープで引っ張ってくれていますので、宙乗機を移動させることができますが、カテナリの場合は傾斜がきついので自分の腕力だけでは動かすことができません。

(今は電動モーターがついていて自走するそうです。よかったですね~)

 

 

 

※これは留守番電話機です。当時はカセットテープでした。右はマイクロカセットテープだったと思います。

 

 

 

※コードレス電話、ここから携帯電話に発展します。

 

 

 

※うぉー ハウディーだNTTと同時にスタートした単体電話機!

 

 

 

私は現場の経験はわずか10年足らずでしたが、20代の私は「日本の通信は俺が守るんだ」との強いモチベーションがあったように思います。

また、このような現場を経験したことはその後の私の会社人生を決定づけたと思います。

 

 

 

※これは海外製の電話機です。通信機器の自由化によりさまざまな電話機が利用できるようになりました。

 

 

 

現在、日本の多くの企業は社員のエンゲージメント向上に腐心していますが、”エンケージメント”という言葉自体がなかった昭和は、今よりも格段にエンゲージメントが高かったように思います。

 

・・・・・・

 

さて、

旧門司三井倶楽部のレストランで名物の焼きカレーにありつけなかった私たちですが、この門司港レトロエリアのどのお店にも、焼きカレーメニューがあるようです。

門司電気通信レトロ館からレトロエリアに戻ってきて、どのお店にしようかと考えてみたものの、事前情報も持っていないので通り掛かったお店に入りました。

 

しかし、これが"あたり"だったようです。

 

伺ったお店は「ドルチェ」さんとです。

 

 

 

※三井倶楽部から海峡プラザに向かう途中にドルチェさんがあります。

 

 

 

※交差点の角地のため2方向から入店できます。

 

 

 

 

※門司港レトロ地区のマップを掲載します。

 

 

 

チーズがたっぷりかかっていて、カレーをスプーンでそっとすくうと、中に卵黄が現れます。

 

 

 

※このチーズと卵が焼きカレーの特徴ですが・・・卵は??

 

 

 

※チーズを除けると卵黄が顔をだしました。

 

 

 

卵黄を潰してカレーのルゥと混ぜると、カレーがまろやかになりさらにおいしくなります。

私も家内も大満足の焼きカレーでした。

ごちそう様でした。

 

 

 

※おまけ・・焼きカレーのセットでついていたサラダです。これもおいしかったですよ。