こんにちは、スタルペスです。

 

今春に北九州市の遺跡をめぐってきました。

北九州市は若い頃に住んでいた思い出の街です。

私の出身が大分県中津市なので北九州市は通勤圏であり大きな意味では同一の経済圏になっています。

母方の親戚の多くは北九州市に住んでいますので私にとっては身近な街です。

 

今回の目当ては「城野遺跡(じょうのいせき)」です。

今から1800年前の大規模集落の遺跡です。

 

 

 

※「城野遺跡公園」(小倉南区城野一丁目13)

 

 

 

※発掘調査後は商業地として埋め戻しの予定でしたが大型周溝墓の発見で一部を公園化しました。

 

 

 

※南北24m、東西16mの大型の方形周溝墓が発見されました。

 

 

 

平成21年から旧城野医療刑務所の跡地利用による発掘調査が行われ、大規模集落があったことが分かりました。

中でも九州でも最大級の「方形周溝墓」が発見され、その中央には2基の小児用の箱式石棺が設置されており、石棺内部には多量の水銀朱による赤色顔料が厚く塗られていたことが分かりました。

また、石棺には線刻による人物のような装飾模様も見つかており注目をされる遺跡です。

 

 

 

※方形周溝墓には2基の小児用の箱式石棺が発見されました。

 

 

 

※石棺内部にはおびただしい量の水銀朱が塗られていました。

 

 

 

※石棺内部には線刻よる人物が描かれていました。

 

 

 

なかでも、私がとても気になるのはこの遺跡群の「広さ」です。

都市の真ん中にあり建物が密集している地域ですので全体像はしっかりとは掴めていないのではないかと思います

調査した範囲だけで、竪穴住居が約40棟の他、貯蔵穴や土壙墓なども発見されています。

 

 

 

※石棺に線刻で描かれいてた弥生人らしき人物画

 

 

 

 

※城野遺跡では40基以上の竪穴住居と玉製作工房跡が発見されました。

 

 

 

また、住居跡のうち2棟は、勾玉や装飾品を作る玉工房ということが分かっています。工房跡からは管玉などの完成品のほかに、水晶や碧玉などの原石や未製品、失敗品の破片なども出土しています。また、玉の穴をあけるための鉄の錐、磨いてかたちを整えるための砥石が確認されており、弥生時代にここに人々がそれぞれ分業し役割を果たしていた古代の都市があったのではないかと思います。

 

 

 

※玉工房跡から発見された碧い管玉(現地説明板より)

 

 

 

この遺跡公園に伺った後、近くにある「重留遺跡(しげとめいせき)」に行った際に、ここにも竪穴住居27棟の他、掘立柱建物11棟、貯蔵竪穴51基が見つかっており、竪穴住居のひとつからは「広形銅矛」が見つかっており、地域の有力者による祭祀が行われたことが想像ではます。

 

 

 

※大型方形周溝墓の発掘時の写真(現地解説板より)

 

 

 

※発掘された「玉つくり工房跡」(現地解説板より)

 

 

 

ここ「重留遺跡」の所在地は、北九州市小倉北区となっていますが、「城野遺跡」のある小倉南区とは隣接する遺跡になっています。両遺跡とも低い丘陵地になっていますがその間にある谷には水田があり、稲作が行わていたことが分かっています。

 

 

 

※重留遺跡かせ発見された「広形銅矛」(現地説明板より)

 

 

 

※重留遺跡公園の名板にも、銅矛のモニュメント

 

 

 

同じく隣接する遺跡として「重住遺跡」があり、城野遺跡と重留遺跡と重住遺跡も含めたトライアングルのエリアが弥生時代後期、魏志倭人伝に出てくる卑弥呼の時代の「クニ」だったのではないかと想像します。

 

 

 

※城野遺跡と近隣の弥生遺跡、紫(谷地)は水田エリア(現地説明板より)

 

 

 

ここが都会の真ん中ではなかったら佐賀県の吉野ケ里遺跡のような大規模な遺跡として存続できたかも知れません。また、まだまだ様々な発掘調査により新発見もたくさん出てきたのではないかと思うと残念でなりません。

 

 

 

※重留遺跡公園の発掘状況を再現したエリア

 

 

 

北部九州には、たくさんのクニがあったことが発見された遺跡から容易に想像できます。

 

このブログでも何度も書いていますが、魏志倭人伝では邪馬台国に至るのでの「クニ」を順番に記載しています。

①対馬国→②一支国(壱岐)→③末盧国(唐津市あたり)→④伊都国(糸島市)→⑤奴国→⑥不弥国→⑦投馬国→⑧邪馬台国の順番になります。

 

 

 

※住居の南端に楕円形の土坑に埋めており、上から灰白色の粘土塊を目印として上に覆っていたそうです。

 

 

 

※広形銅矛は埋めては掘り起こしを何度も繰り返していたそうです。

 

 

 

①~⑤まではどこだったか場所が分かっています。現在の福岡市あたりにあった奴国から、あと2つのクニを通っていけば邪馬台国に到着します。

これまでの行程から管変えるとせいぜい50km程度だと思います。

私は、この北九州市の城野遺跡が邪馬台国とは思っていませんが、邪馬台国に近接するクニの一つだったのでは思います。

 

 

 

※都市の遺跡は小さな公園っていう感じでコンパクトです。

 

 

 

邪馬台国ヤマト説の方かだは、纏向遺跡が邪馬台国で箸墓古墳が卑弥呼の墓と考えられていると思いますが、邪馬台国までの距離感を完全に無視しており、また北部九州には至る所に弥生時代の「クニ」と考えられる大規模集落があることも無視しているように思います。

 

九州人の独りよがりの考え方かもしれませんが、やっぱり邪馬台国は九州にあったのだと思います。