スタルペスです。お久しぶりです
転職してから忙しい日々を送っていてブログのフォローもできない状態がつづいていますが、今日は久々にブログ投稿ができそうです。
前回と言っても1か月以上の前からの続きで、今回も唐津市の古墳を紹介します。
前回のブログで紹介した「双水柴山古墳群」から少し北に向かったところ、近くには西九州自動車道が通っています。
今回もさらにニッチな古墳、「外園古墳(ほかぞのこふん)」を紹介します。
圃場整備された農地の中に集落があり、集落内を東西に通る道路際に外園古墳と書かれた標識を見つけました。
※集落の入口(出口?)に「外園古墳」の標識がありました。
しかし、近くに車を停める場所がなかったので少し離れた神社の駐車場に停めることにしました。
天気もいいので集落の中を徒歩で歩いていくこととしました。
すると、古墳の標識とは別に標識があることに気が付きました。
※天気もいいので徒歩で向かいます。
「柏崎遺跡(かしわざきいせき)」と書かれています。
説明板には、ここら一帯が「柏崎遺跡」と呼ばれているそうです。
※外園古墳の標識の反対側に「柏崎遺跡」の解説板が立っています。
なんでもこの遺跡からは弥生時代中期の「末盧國(まつろこく)」の王墓が発見された遺跡だそうです。
王墓??
末盧國の王墓って・・・見つかっていたの?
※この一帯が弥生時代の末盧国の中心?それとも王宮?
遺跡の説明板には、世界的にも珍しい「触角式有柄銅剣(しょっかくしきゆうへいどうきょう)」の写真が載っていました。この銅剣は騎馬民族のスキタイ風の剣で世界に3~4例しかないものだそうです。
現在は東京国立博物館に所蔵されているそうです。
※解説板の「触角式有柄銅剣」写真(左)
スキタイって・・・どこ?
ネットで調べてみると、紀元前8世紀から前3世紀にかけて現在のウクライナあたりから中央アジアに住んでいた騎馬民族だそうです。
まさに現在、ロシアの侵攻により戦火にある地域の人たちの先祖だといえると思います。
※スキタイ(Scythia)人の勢力圏ってこんなに広いの?
※スキタイつてWikipediaで検索したら、この画像が出てきました。
この「触角式有柄銅剣」がスキタイ製とは言えませんが、弥生時代に北部九州の末盧國が今のウクライナと人たちとつながっていたとは驚きです。
3世紀はまさに卑弥呼の世界です。
魏志倭人伝では、現在の韓国ソウル付近と考えられている帯方郡から邪馬台国に向かうには、8つの国を通ります。
まずは、現在の韓国南部沿岸部で古代の伽耶諸国と言われている「狗邪韓国」から船に乗って対馬国(長崎県)、一大国(長崎県)を経て九州本土の港町「末盧国」にたどり着きます。
※この距離感で邪馬台国は大和にはならなと思うけど・・・
魏志倭人伝では、末盧国は四千戸余りの規模で現在の佐賀県唐津市を中心とする地域と言われています。この末盧国の王墓がこの辺にあったというのは、この場に立ってみると感慨深いものがあります。
※末盧国の王墓はこの中のどこにあったのでしょうか?(柏崎遺跡説明板より)
先日NHKスペシャル「古代史ミステリー第一週"邪馬台国の謎に迫る"」では、卑弥呼のいる邪馬台国を奈良県纏向を前提とした番組展開がされていましたが、私たち九州人にとってはどうしても理解できない点が、この邪馬台国に至る8つの国の距離感です。
※先週日曜日放送されたNHKスペシャル(NHKのHPよりお借りしました)
末盧国が佐賀県唐津市、伊都国は福岡県糸島市を中心とする地域、奴国が現在の福岡市博多区付近ということは九州説、大和説を唱える方々も意見が一致しているところですが、残りの2つの国「不弥国」と「投馬国」の場所の比定は明確にはなっていませんが、一足飛びに関西まで飛ぶことは常識では考えにくいように思います。
この流れでいくと、魏志倭人伝で出てくる国は「郡」の広さ程度の国でしかありません。
末盧国と伊都国も、伊都国と奴国も隣町の感覚です。
※NHKスペシャル出演の原菜乃華さん(NHKのHPより)
この流れから行くと「不弥国」と「投馬国」も奴国の隣町の感覚で考えなければならないように思います。
また、番組では邪馬台国の墓制が前方後円墳だと言っています。
たとえ箸墓古墳が3世紀築造だとしても、たとえ纏向で大型建物跡が発見されたからと言って、邪馬台国の墓制が前方後円墳だとか決めつけるのは早計のように思います・・・・。
前方後円墳はヤマト王権の墓制であり、ヤマト王権≠邪馬台国と考えている人にとってはイコールにはならないと思いますが、どうでしょうか?
※前方後円墳は邪馬台国の墓制ではなくヤマト王権の墓制ではないでしょうか?
さて本題に戻ります。この末盧国の王墓地である柏崎遺跡の標識の立つ道路の反対側には「外園古墳」の標識があります。
本来の目的が「外園古墳」だったので、気持ちを切り替えて「外園古墳」に向かうことにします。
標識の示す方向に向け、集落の東端の民家の脇道を歩いて古墳を探します。
※この小径の奥に「外園古墳」があるはずです
なかなか、探せず周りをうろうろしています。
畑の向こう側にクヌギ様の樹木が規則正しく並んでいます。個人の土地かもしれないのでちょっと気になりましたが、できるだけ端の方を歩いてその向こう側に行きました。
※古墳はどこ??
※スマホのナビではこの整列している木々のあたりにあるはずですが・・・
ありました。ありました。
雑草に覆われていますが、しっかりと墳丘も残っていて説明板もありますので「外園古墳」で間違いありません。
説明板によると直径10.4m、高さ2.4mの円墳です。
墳丘の上部は金網で囲まれていて墳丘に登ることはできません。
※説明板が無かったら古墳だとは気が付かないくらい草木に覆われています
この古墳は盗掘にあっていて、副葬品はほとんどなくなっているとのことです。しかも、この盗掘者たちは乱暴で横穴式石室の入口から石室に入ったのではなく、墳丘から石室の天井部を破壊して盗掘しているそうです。
※手前にも木製の説明板があったようですがすでに壊れています
どうりで墳丘上部には金網で入れないようにしているのだと理解できました。こんなに草ボーボーの墳丘に登って盗掘孔に足を踏み入れると、落とし穴のように石室内部に落下してしまうからたと思います。
※墳丘の上部は金網で囲われ入れなくなっています。
※説明板にあった古墳の実測図です。
7世紀の古墳とされていますが、石室内部に赤色顔料で塗られていることからそれよりも古いのではないかともいわれているそうです。
発掘調査ではほとんど遺物らしきものは見つかっていませんが唯一、滑石製の勾玉が見つかっています。
※この穴は石室の入口??
横穴式石室とのことですが、横穴部らしい入口は見当たりません・・・これか?
小さな穴らしきものがありますが、土砂でほとんどが埋まっています。
カメラを突っ込んでみましたが木の根が邪魔して中が確認することができません。
※これの”穴”は、イタチの穴?? モグラの穴??
期待した石室内部は見ることができませんでしたが、以前は赤色顔料で真っ赤に塗られた石室が確認できたそうです。
残念ですが・・・ここらで撤退したいと思います。
※穴にカメラを入れて撮影しましたが・・石室ではないようです
※説明板では、石室はこうなっているようです。
最後まで読んで頂きありがとうございます
では・・・また時間があったら投稿させて頂きたいと思います。