こんにちは、スタルペスです。

 

昨年の平戸旅行の2日目は佐世保市経由で熊本を目指しました。

長崎県は九州のほかの県と比べると、古墳の分布が少ないように思います。

九州の各県は古墳にそれぞれ特徴があり古墳時代の姿がおぼろげながらでありますが想像できるのですが、長崎県はまだ私はよくつかめていません。

 

平戸市から佐世保市に南下していく途中にある遺跡「大野台支石墓群」に立ち寄ることにしました。

この大野台支石墓群は、島原半島の原山支石墓群と同様に我が国でも最も古い支石墓の一つといわれている遺跡で、国指定史跡となっています。

今から約2,400年前の縄文時代後期から弥生時代前期にかけての集団墓地といったところです。

 

 

 

※大野台遺跡(左側の柵の向こうは「大野池」だそうです)

 

 

 

※遺跡入口です(解説版があります)

 

 

 

支石墓はドルメンと呼ばれ世界各地にある墓制です。

我が国では、なぜか北部九州にだけ見られる墓制で、とくに糸島を中心とする玄界灘沿岸や、長崎県西岸から有明海沿岸地域にかけて支石墓の分布が見られます。

しかし、不思議なことに福岡平野に入るとパッタリと存在しなくなる不思議なお墓です。

 

 

 

※碁盤状というのがよくわかる支石墓です。

 

 

 

※支石の大きさもよくわかる支石墓です。

 

 

 

この北部九州の「支石墓」は、朝鮮半島南部から稲作と一緒に伝わってきたと言われています。

 

朝鮮半島には世界にある支石墓の半分の数が集中されているそうです。

朝鮮半島北部は支石の高さの高い”テーブル形”の支石墓が多く、「北方型」と呼ばれており、朝鮮半島南部では支石の高さが低い”碁盤(将棋盤?)状”の形の支石墓が多く「碁盤型」と呼ばれているそうです。

 

 

 

※三角形なので2号支石墓のようです

 

 

 

北部九州にある支石墓も、この「碁盤型」のため、朝鮮半島南部からの伝播と言われています。

我が国に伝わったところは、玄界灘沿岸地域ではないかと思われています。

 

 

 

 

※この上石の厚さは被葬者の力関係と比例するのでしょうか?

 

 

 

※現地の案内板にあった遺跡の配置図です。下が北側です。

 

 

 

でも、私のような素人には、よくわからないことがあります。

 

この「大野台支石墓群」や南島原市の「原山支石墓群」に埋葬されていた人たちは、”縄文人”ではないかということです。長崎県の支石墓の特徴は、主体部が「箱型石棺」になっていることです。通常は木棺や土壙墓の上に上石を置く形が一般的ですが、石の棺(ひつぎ)に被葬者を埋葬していました。しかも、発掘された石棺の大きさはいずれも、想定外に小さい石棺のため屈葬をして埋葬していたとみられています。

 

 

 

※箱式石棺です。本当に小さい石棺です。

 

 

 

※いたるところに石棺があります。この遺跡では46基の支石墓が発見されているそうです

 

 

 

「縄文人」には屈葬の風習はありますが、「弥生人」にはそのような風習はありません。

しかも、我が国で最も古い支石墓群がここ長崎県の「大野台支石墓群」だとすると、朝鮮半島から稲作と一緒に伝わったとはどうしても思えないのです。

 

弥生人が伝えたとすると、弥生人が現地の縄文人の風習である屈葬を受け入れたということでしょうか?

 

 

 

※これも石棺ですが、いずれも屈葬を前提とした大きさです。

 

 

 

※この遺跡で、ここだけがよくわからない遺構です。積石墓ではないかということです。

 

 

 

この佐世保から平戸の海岸線は平野は少なく、稲作が発達するような地形ではありません。その証拠に数百年後の古墳時代になってもこの地には大きな古墳は築かれておらず、「稲作」によって富と力を得た大きな勢力は発生しなかったと思えるのです。

 

 

 

※解説板では、「石棺(六角形?)」と書かれています。もしかすると六角形墓?

 

 

 

かといってこの地は、土地がやせ細った不毛の地ではありません。稲作ができる平地は少ないものの気候は温暖で木々や植物が繁茂する豊かな土地だったのです。弥生人にとっては不向きの土地でも狩猟採集を主な生業とする縄文人にとっては宝のような土地だったと思います。

 

 

 

※この石配列も石棺ではないかということです。

 

 

 

※遺跡公園の隣接する「大野池」。当時からあった池でしょうか?

 

 

 

そのことは、縄文時代より前の人々にも同じことが言えたのではないでしょうか?

 

・・・・・

 

私たちは、ここ大野台支石墓群遺跡からさらに佐世保市内に向けて南下をしていきます。

ここから南東に10Kmほど行ったところに、時代を2万年もさかのぼった旧石器自体の遺跡に会うことにしました。

今から2万年前の旧石器の人たちが住んでいた洞窟、国指定史跡「福井洞窟」です。

この長崎県西岸の地域は、旧石器時代の遺跡がとても多く見つかっています。

 

 

 

※国指定史跡「福井洞窟」の全景です。

(当時は鳥居から下の土砂は無くもっと大きな洞窟でした)

 

 

 

※洞窟内には現在も稲荷神社の本殿が鎮座しています。

 

 

 

※以前はもっと広い洞窟でしたが地すべりにより埋まったようてす。

 

 

 

この福井洞窟は、2万年前の旧石器時代から1万年前の縄文時代草創期までの約1万年間の人々の生活の痕跡が地層ごとに出土した遺跡です。

このように1カ所で人々の生活が連綿と綴られた遺跡は学術的にも大変貴重で旧石器時代の洞窟遺跡としてはわが国で初の国指定史跡となりました。

 

 

 

※ここから3Kmのところにある「福井洞窟ミュージアム」の遺跡年表です。

 

 

 

我が国の旧石器時代は約4万年前から始まったそうですが、この福井洞窟は3万年前から人々の生活の痕跡が発見されており、約2万年前くらいから洞窟での定住が始まったようです。

 

 

 

※福井洞窟での暮らしイメージ

 

 

 

※炉の跡(福井洞窟ミュージアムのレプリカ展示)

 

 

 

アフリカを起源とする私たち人類の先祖、ホモサピエンスは約6万年前にアフリカを離れ世界各地に広がっていきます。すでに約4万年前には日本列島に住み着いたことがこの洞窟からもわかるのです。

この4万年前から縄文時代が始まる1万6千年前までの期間を我が国における旧石器時代といいます。

 

 

 

※旧石器時代の狩猟の様子

 

 

 

※1万9千年前の道具(剥片・石核)

 

 

 

※1万9千年前の「細石刃・細石刃核」です

 

 

 

※細石刃の利用方法(槍などの刃として石器を利用しています)

 

 

 

この福井洞窟では3万年前から旧石器人が造った様々な石器や道具が発見されています。また、炉の跡も発見されておりこの洞窟の中で暖をとり、道具を作り共同で生活していたことが解ります。

また土器片も1万6千年前の地層から発見されており、この洞窟の人々は日本列島のどの地域よりも早く土器を作り生活に役立てていたことがわかっています。

 

 

 

※福井洞窟で発見された1万6千年前の土製有孔円盤(中央)

 

 

 

※これも福井洞窟から出土した縄文時代草創期の隆起線文土器

(すでに人々は土器を使って煮炊きしていたと思います)手の影が邪魔!

 

 

以前、織田裕二がMCをするNHKの番組で、ネアンデルタール人とホモサピエンスは脳の体積も同じで同時期に共存していた人類ですが、なぜネアンデルタール人は絶滅し、ホモサピエンスは現在まで生き残ってきたのかということを聞いたことがあります。

 

 

※福井洞窟から出土の両面加工石器のレプリカ

 

 

 

 

その理由は寒冷化などの地球環境の変化ではなく、「情報」の量にあるということでした。

ネアンデルタール人は家族を単位として狩猟採集生活をしていましたが、ホモサピエンスはもっと大きな集団(部族)として集団生活をしていました。

そこで最も大きな違いがうまれたのが「情報」の量でした。

 

 

ネアンデルタール人の道具は何万年も進化をしないのですが、ホモサピエンスの道具は進化をし続けるのです。

地球が寒冷化になり獲物となる動物が少なくなると、進化した道具を使うホモサピエンスは獲物を効率的に獲得できるのに比べ、何万年も同じ石器を使っているネアンデルタール人は獲物が思うように取れなくなっていきます。

 

現代が「情報化社会」と言われて久しいですが、私たちホモサピエンスが現在まで地球上で生存し続け、進化をしていることは、とりもなおさず私たちが集団生活の中で失敗や反省を繰り返しながら工夫や発明をし進化をしようとする本能を持っているホモサピエンスだからなのではないでしょうか。

 

 

 

※福井洞窟ミュージアムに寄ってきました(少しピントボケしていますが)

 

 

 

※福井洞窟ミュージアムの本当の姿はコミュニティセンターだったようです。

 

 

 

先日、会社でもこの話をして企業が絶滅するか、進化するかは社員一人ひとりがより多くの情報をみんなで共有できるか否かではないかという問題提起をしたことがありました。

悪い情報もよい情報も皆で共有することで、よい情報は他の部署でも真似をする。悪い情報は繰り返さないために別の

やり方を考えることで会社も日々進化していくという話です。

 

 

 

※福井洞窟に住む人たちは洞窟内で火を焚き。道具を作っていたようです。

 

 

 

約2万数千年前に絶滅したネアンデルタール人と現代人を比べるには少々無理がありますが、少なくともこの福井洞窟の旧石器人たちは集団生活の中で様々な道具を使い縄文人へと進化していったことは確かだと思います。

 

 

次に向かったのは、福井洞窟からさらに南下し、佐世保市街地にある、もう一つの「洞窟」を訪問しました。

佐世保市瀬戸越地区、住宅街の中にある岩陰遺跡「泉福寺洞窟」です。

ここも、2万5千年前の旧石器時代から人々の営みの痕跡が発見された洞窟です。

 

 

 

※泉福寺洞窟の入口は住宅と住宅の間にある隙間のようなところを通っていきます。

 

 

 

※細い径を進むと広場に出ました。ここからが遺跡への入口のようです。

 

 

 

この遺跡の特徴は縄文時代草創期である1万5千年前から1万年前までの縄文期の土器や石器が幾重にも重なった地層から出土しているところです。

とくに「豆粒文土器(とうりゅうもんどき)」は1万2千年前の縄文土器として貴重な出土でした。

 

 

 

※広場から階段を登っていきます。

 

 

 

※住宅地の中にある古代空間が「泉福寺洞窟」です

 

 

 

このように、長崎県の北部も平戸から佐世保にわたる地域は先史時代の人々の豊かな生活の痕跡が多く出てくるところです。とくに日本列島の中でも発達した最新の道具を用いて山野を駆け回り狩猟や採集を行ってきたことが想像できます。

 

 

※2万年以上前に旧石器人が住んでいた洞窟が目の前にあります。

 

 

 

※洞窟内は意外と広く大勢の人たちが暮らすことが可能なスペースです。

 

 

 

今回の平戸・佐世保の旅は、日本最西端の前方後円墳に行く旅でした。

この旅で改めて知ったことは、稲作が伝わる前の時代の日本列島はとても豊かな森林が広がり豊富な水量を誇る河川がいたるところで流れ、人々は日本列島を縦横無尽に生活をしていたことがよくわかりました。

 

 

 

※この岸壁には、いくつもの洞窟があり一族が一つ場所で暮らしていたことが解ります。

 

 

 

しかし、稲作伝来により私たちの先祖は、日本列島の中でも僅かにしかない平地に集中することとなります。

それまで山野を駆け回っていた縄文人たちは、「米」という命を保証してくれる「魔法の植物」によって狭い土地で窮屈な生活を強いられるようになるのです。

 

 

 

※洞窟の前面はなだらかな傾斜をした森が広がっています。

 

 

 

現在の私たち日本人もまた、「生活」を保障してくれる「魔法の紙」によって、都会の中で身も心も縛られた窮屈な生活を強いられているのですから、少なくとも3千年もの間、この日本列島の人々はこの呪縛から解き放たれたことはないのです。

 

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さてそろそろ自宅に帰ることにします。

その前に遅い昼食をとることにしました。

せっかく佐世保まできたのですから、なにか名物料理を食べたいと思いスマホでググります。

でも、市街地の駐車場のないお店はちょっと億劫なので、郊外のお店に絞って検索をします。

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ちょっと気になるお店を見つけそこに行って見ることにしました。

佐世保名物「レモンステーキ」のお店「時代屋」さんです。

 

 

 

※レモンステーキのお店「時代屋」さんです。

 

 

 

私も家内も、全くの初体験、レモンステーキなるもの自体がよくわかっていません。

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お店に到着すると、店前の駐車中にライダーたちが大勢待っています。どうも・・・満席で入店を待っているようです。

せっかくここまで来たのですから私たちも待つことにします。

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ステーキ屋さんは、時間も含めてゆったりとした時間を楽しむものだと思っていましたが、意外に回転率はいいようです。

入店し席に案内されて、戸惑いながらもレモンステーキを注文します。

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思いのほか早く運ばれてきます。

ステーキ皿の上には薄い牛肉が湯気を立てて運ばれてきました。

レモンの輪切りも中央に乗っています。

 

 


※これが「レモンステーキセット」です。お客さんの9割は注文するようです。

 

 

 

※初体験のレモンステーキは、アツアツで忘れないおいしさです。

 

 

 

戸惑っている私たちをみて店員さんから、「はじめてですか?」と聞かれ「半分食べたら、残りのご飯を混ぜて食べるとおいしいですよ」とのこと。

 

メニューの裏側にも食べ方が写真入りで書いていました。

 

 

 

※テーブルの上に食べ方が載っていました。

 

 

 

ステーキにしては薄い肉に少しがっかりしながらも、一口食べてみると・・・・

驚くようにおいしいお肉ですし、ソースもごはんとよく合う味付けでレモンの酸っぱさなんか感じません。

あっという間に食べてしまい。のこり三分の一になってしまったご飯をステーキ皿に入れて混ぜ混ぜにしていただきました。

 

 

 

※3度も載せてしまいました。

 

 

 

この段階ではすでに想像はできている味ですが、混ぜることによりレモンステーキの最後の最後まで食したという満足感を得ることができる営みなのだと知りました。

帰宅する車の中で私たちは、なぜかレモンステーキの魅力にはまっていました。