こんにちは、スタルペスです。

 

今年2月に開通した「天草未来大橋」を渡りに、天草市までドライブに行ってきました。

「天草未来大橋」とは、熊本県の天草上島と下島を繋ぐ2本目の橋で、朝夕や観光シーズンの渋滞緩和を目的として建設されました。全長は1148mの自動車専用の橋梁です。

これまで天草の中心地である天草市本渡町(旧、本渡市)に行くためには、「天草瀬戸大橋」しかなく、休日は必ずと言っていいほど橋の手前で渋滞をしていました。

 

 

 

※今年2月に開通した「天草未来大橋」

 

 

 

念願の橋の開通は天草市民のみならず熊本県民にとっても地域の経済界にとっても待ちに待った開通だったと思います。

もちろん今までの「天草瀬戸大橋」も並行して利用できますので、国道266号線を通って牛深方面に行く場合は従来の「天草瀬戸大橋」を通ることになりますし、国道324号線の海沿いを通って苓北町や通詞島近辺のイルカウオッチが目的なら、新しく開通した「天草未来大橋」が便利だと思います。

これからもぜひうまく利用していきたいと思います。

 

 

 

 

 

 

※国土地理院の地図には、もう「天草未来大橋」が反映されていました。

 

 

 

この日は、新しくできた「天草未来大橋」を車で通るだけではもったいない気もしますので、ついでに天草の遺跡にも訪れておきたいと思い、前日に調べおいた石室に入れる古墳に行くことにしました。

 

目的の古墳は天草市楠浦地区にある「楠浦新田古墳(くすうらしんでんこふん)」です。

 

 

 

※あの高台の上にあるのが「楠浦新田古墳」です、

 

 

 

※近づくと石室が開口しているのがわかります。

 

 

 

天草市楠浦地区は市街地から南に15分程行ったところにあります。

車で近づくにつれ、「あれっ?・・・・どこかで見たことある景色じゃ?」

「あれっ!!ここ前来たことある??」

「ここ、絶対に前に来ている!! 」

「あー、やっぱりここ前に来たことある~」 

 

自信が確信に変わった瞬間です(松坂大輔じゃねー!!)

 

 

 

※今回訪問した「楠浦新田古墳」です

 

 

 

※昨年5月15日に訪問時の「楠浦新田古墳」(草の様子が違うんですかね)

 

 

 

そうです!この「楠浦新田古墳」は1年前にも訪れてたのにすっかり忘れて再訪してしまいました。

帰宅後すぐにパソコンの写真フォルダを確認してみると、やはり2022年5月15日に訪れていたことが解りました。

 

齢六十三、記憶力の劣化は否めません。

古墳好きの私にとっては再訪の目的以外で自分が行った古墳を忘れて再び訪問することはなかったのですが、とうとう私の老化もひとつステージが上がってしまったように思います。

 

 

 

※横穴式石室の入口です。

 

 

 

さて・・・・

2度目の訪問となった「楠浦新田古墳」について紹介します。

古墳横に立つ説明板には、6世紀後半の古墳で、直径10mの円墳だということ。石室は単室の横穴式石室で天井部が穹窿状になっているいわゆる「肥後型石室」であるとのこと。

 

 

 

※大きな一枚石の玄門が左右に2つ立っています。

 

 

 

石室は古くから開口しており副葬品もほとんど消失しており、ガラス玉が1個のみ採取されただけのようですが、周辺からは須恵器の破片が数多く出土しており年代特定に至ったようです。

 

 

 

※石室内部の様子です。大きな腰石の上に厚めの板石が積まれています。

 

 

 

古墳の名称どおり周辺の田んぼは近世になって新田開発で開墾されたもので、築造当時は目の前が入江になっており海を見下ろす位置にあったとのことです。この古墳の被葬者が海との関わりの強い人物だったことを物語っています。

 

 

 

※石室右側の壁です。大きな腰石が特徴的です。

 

 

 

天草地方にも古墳は多いのですが、前方後円墳の古墳の発見がないことからヤマト王権と直接関われるような大きな豪族はいなかったと見ることが自然のように思います。

 

しかし、この「楠浦新田古墳」の石室もドーム型天井など肥後型石室構造の特徴を表していることから、八代海沿岸地域の人々との結びつきが強かったと考えられると思います。

 

 

 

※石室の天井部、石を少しづつずらして積み上げドーム状にしています。

いわゆる肥後型石室の特徴です。

 

 

 

※この「楠浦新田古墳」は八代海沿岸の古墳と考えることができます。

 

 

 

6世紀で想定できる八代海沿岸地域の豪族というと、まず出てくるのが氷川町にある「野津古墳群」を代表とする「火君」ではないでしょうか?

野津古墳群には6世紀初頭から前半にかけての短期間に前方後円墳が5基(現存4基)築造されています。また野津古墳群のすぐ近くにある「大野窟古墳」は県内最大規模の前方後円墳です。

これらの前方後円墳の被葬者は、火君(火の君、肥の君)と言われており、西暦527年の磐井の乱で磐井と共に戦った火君一族ではないかと考えられてます。

 

 

 

※石室左側の壁の様子です。天草砂岩を積み上げています。

 

 

 

火の君は、現在の八代海沿岸地域の盟主的な豪族だったのではと思います。その勢力下にここ天草地域の豪族たちも組み入れられたものではないでしょうか?

天草エリアの古墳は、ドーム形の天井をもつ肥後型石室ですが八代地域や宇土半島基部の石室のような石屋形や石棚といった構造や石障なども造られておらず、石室内部は至ってシンプルな単室方形の石室構造をしています。

 

 

 

※「楠浦新田古墳」の石室実測図です。

 単室の石室でドーム状天井ということがよく分かります。

 

 

 

この「楠浦新田古墳」だけで言えることではないですが、天草地域の古墳はおおむね小規模で肥後式石室としても省略しているものが多く、力関係は火の君等に対して従属的な立場だったのではないかと思えてきます。

 

 

 

※石室の天井真上です。天井石は2枚の板石で塞いでいるのがわかります。

 

 

 

石室内部に入った際に感じたことは、説明板で肥後式横穴式石室とは書いているものの羨道も短く石屋形も石棚なども設けておらず、装飾古墳でもないことから、八代海沿岸の古墳としても九州本土側の古墳よりも小規模の横穴式石室になっています。

 

 

 

※石室内から玄門入口を祖とに向けて写しました。

 

 

 

また菊池川流域や白川流域のいわゆる有明海沿岸地域の横穴室石室に見られるような複室構造の石室でもありません。

このことから想像できるのは、天草地域の人々は海での交易をしていたものの、その基盤となる米作りの面では他の地域より弱かったのではないかと想像します。

 

 

 

※古墳時代後期になると、ここ上島と下島の間に古墳が多く造られています。

 

 

 

※昨年の訪問時の写真(古墳までの道は舗装されていませでした)

 

 

 

※今年は、古墳までの道がコンクリートで舗装されていました、

 

 

 

九州において独自の古墳文化を様々な形で花咲かせた地域は必ずいっていいほど一級河川の流域で「米」の収穫が大きい地域のような気がします。遠賀川流域、筑後川流域、菊池川流域、白川流域、球磨川流域 etc 河川が造る肥沃な平野と河川を通じて海洋とつながっていることが現在でも古墳時代でも地政学上の同じ性格をもっているものと思います。

その意味からすると、天草地方は大規模な河川を通じての穀倉地域がないことが唯一の欠点だったのかも知れません。  

 

 

 

・・・・・・

 

 

 

さて、この楠浦新田古墳に向かう途中に小さな石橋が目に入り、とても素敵な景色だったので古墳の帰りに立ち寄りました。

「楠浦の眼鏡橋」という名前がつけられた石橋です。

 

 

 

※田園風景に小さな石橋の姿が美しい!!

 

 

 

※美しいカーブを描く石橋「楠浦の眼鏡橋」

 

 

 

私は石橋は詳しくありませんが明治11年に造られた石橋のようです。

石橋ファんでもないのですが、この田園風景に溶け込んだ優美で可憐な姿につい誰でも足を停めるのではないでしょうか?

石橋のファン投票があれば、私は接待にこの「楠浦の眼鏡橋」に投票をすると思います。

 

 

 

※この石橋は渡ることができるんですよ・・・

 

 

 

※橋を渡ってくると、思ったより急な角度でビックリです。

 

 

 

※橋のてっぺんから見る方原川の「堰」、水の流れが美しい

 

 

 

前述のとおり、明治11年にここ楠浦村と宮地村を結ぶために、方原川にかけられた石橋です。

代々、楠浦村の庄屋をしていた第13代庄屋の宗像堅固さんという方が行った事業で、古墳の石室の石材としても古くから使用されている「天草砂岩」を加工して架橋された石橋です。

 

このアーチが何とも言えない優美さをもった石橋ですが、石橋脇の公園にある説明板にはこの石橋の特徴として全体に壁石が薄く、特にアーチの中央部は壁石がなく輪石のみとなる構造のため、アーチの曲線が優美な姿になっているそうです。

 

 

 

※石橋の中央部は壁石はなく輪石のみで造られていて優美な姿を造っています。

 

 

 

隣にある諏訪神社の祭りにはこの橋を渡る神事があるそうです。

 

 

 

東・西・南・北、どの角度から見ても美しい姿をしています。

また、この橋はいつでも自由に渡ることができる石橋で、路面(橋面)は、芝が植えており歩きやすくなっています。でもわたってみると結構急斜面で、当時は車力等を曳いて渡ったと思うと大変だったのではと推察します。

 

 

それでは、この日の私たちのランチを紹介します。

また、1年前に来た時のランチも併せて紹介します。

 

今回(4月30日)の「楠浦新田古墳」訪問の際のお昼は天草市本渡町広瀬にある「きく亭」さんにしました。

お店に到着したら駐車場が満車でしたので、お店の方にお断りして店前のスペースに停めさせていだき入店しました。

 

 

 

※先日おじゃました「きく亭」さん。

 

 

※以前は牛深にあったそうですが、本渡に移転したお店だそうです。

 

 

 

洋食を中心とした定食屋さんですが、カウンター以外はすべて広々とした個室の掘りコタツの造りになっていて和食店のような店内です。

 

 

 

※綺麗な店内で、オープンキッチンになっています。

 

 

 

ハンバーグ好きの家内は、「きく亭定食」、私は迷った挙句に「かきフライ定食」を注文。

 

 

 

 

※「きく亭定食」。エビフライがはみ出しています。

 

 

 

※昔ながらの洋食っていう感じです。タルタルがちょっと少ない。

 

 

 

家内の「きく亭定食」は予想以上に大きなエビフライがど~んと盛られていてボリューム感満点の定食です。

私の「かきフライ定食」はアツアツ揚げたてのカキフライが行儀よく6つ並んだ定食です。

 

 

 

※私の注文の「かきフライ定食」、カキフライが行儀よく並んでいます。

 

 

 

どちらもアツアツ・プリプリでとても美味しくいただきました。また、地味に添えられていたマッシュポテトが妙においしいのでさすが洋食屋さんって感じでした。

 

 

 

※ソースがもう少し欲しい!!

 

 

 

ちょっとだけ難を言えば、もう少しタルタルソースがあれば文句なしでした。

ごちそう様でした。

 

 

さて、1年前の2022年5月15日にも「楠浦新田古墳」を訪れていたことはご説明しましたが、その時のランチも併せて紹介させて頂きます。

前回訪問時は、天草市本渡町本戸馬場にある「トラットリア・イル・パッロンチーノ」さんです。

 

 

 

※トラットリア・イル・パッロンチーノさんです

 

 

 

※高級感のあるおしゃれな建物です。

 

 

 

住宅街の中にあるイタリアンレストランで、知る人ぞ知るという感じが出ているお店です。

入店後、窓側の席に案内されて家内とメニューを見ながら作戦会議を開始。

 

 

 

※この日は雨模様でしたが、窓が大きく光が店内に差し込みます。

 

 

 

※白を基調とした店内は、落ち着いて食事ができる空間です

 

 

 

イタリアンのランチの場合の私たち夫婦の基本はパスタとピザを注文して分け合って食べるということ。

今回は、「今日のおすすめ」の「ホタテ小柱ペペロンチーノ(カラスミかけ)」パスタと、ピザは定番の「マルゲリータ」を注文。

 

 

 

※本日のおススメが黒板に出されています。

 

 

 

前菜とは、お洒落な盛り付けで家内は大喜び!!です

パスタもピザも文句なしの美味しさです。カラスミもふんだんにかかっており大満足の料理でした。

この日、私が古墳を見学していた時間、家内は古墳の近くの「しろつめ草」の四葉探しをしていましたが、そこで見つけた四葉のクローバを会計時にお店の方にお礼として渡していました。

 

 

 

※前菜の盛り付けもオシャレです

 

 

 

※かんぱちのお刺身、カルパッチョも美味しそう!!

 

 

 

※このバケットも美味しかったですよ

 

 

 

実は私の家内の特技は、四葉のクローバーを見つける能力がすごいことです。ものの10分くらいで多い時は4~5本の四葉のクローバーを見つけることができます。

 

 

 

※今日のおススメ料理「ホタテ小柱ペペロンチーノ」です

 

 

 

※キノコがふんだんに乗った「マルゲリータ」

 写真を撮る前に待ちきれずに食べていました。

 

 

 

私は人生で一度も四葉を見つけたことはありません。(見つけようと思ったこともないですが・・)

家内のこの能力だけは、感服いたします。

 

ただ、この能力があってもなんの役にはたたないのですが・・・・・

失敬!!  幸せを見つけてくれているのかも知れませんね!