こんにちは、スタルペスです。

1年遅れの遺跡探訪記が続いていますが、いよいよ1年を超えようとしています。
今回の紹介は、昨年2月23日の天皇誕生日に訪問した、玉名市岱明町の代表的な古墳2基を訪ねて行きました。

最初に訪問したのは、「藤光寺古墳(とうこうじこふん)」です。
菊池川流域古墳の中でも最古級でかつ最大級の前方後円墳です。

 

 

 

※玉名市岱明町の「藤光寺古墳」

 

 


菊池川流域は、九州を代表する古墳たちがたくさんある地域です。
ワカタケル大王(雄略天皇)と銀象嵌された太刀が発見された江田船山古墳や我が国を代表する装飾古墳の一つ「チブサン古墳」をはじめとして数多くの古墳が築かれている地域です。

 

 

※「藤光寺古墳」の前方部(前方部が西に向いています)

 

 

 

※「藤光寺古墳」の後円部

 

 


なかでも、菊池川下流域のここ玉名市岱明町がこの菊池川流域で活躍した豪族たちのルーツとなるリーダがいた地域だと言われています。
「藤光寺古墳」は、全長85m、後円部直径35m高さ9mの大型の古墳です。




※「藤光寺古墳」前方部に建つ「天満宮」




※前方部は完全に削平されて神社になっています。




※神社の境内にあるこの”石”は?




※この石は、絶対に古墳の石材だと思います!!



前方部を西側に向けていますが、前方部はほぼ削平されておりその上には神社が建っています。
いつの頃に建立されたかはわかりませんが、扁額に「天満宮」と彫られた石造りの鳥居があります。この鳥居の柱には「日露戦役記念」と書かれていますので1904年から1905年あたりに建立されたものだと思います。すでに100年以上経っている鳥居になると思います。

 

 

 

※この鳥居は「日露戦役記念」で建立されました。

 

 

 

また、境内には「紀元二千六百年」と書かれた石碑もあり、何者も怖くなかった狂気の日本の姿を見ているように感じます。

ここに限らず、神社には祈りを込めて戦争の記念碑や戦死者の御霊を鎮めるための忠魂碑が多く奉納されています。
死者の霊を鎮めるためなら、お寺に建てればいいと思いますが、その多くが神社が建てられています。




※紀元2600年の記念碑です。(1940年 昭和15年)



戦後、GHQは神社にある忠魂碑などの記念碑が、単なる戦死者の慰霊のためだけではなく、軍国主義や国家主義の意図を有するものと捉えて、その多くを撤去したとのことです。

戦争で亡くなった兵士が、「神」となり、故郷の神社で「神」として祀られること自体が戦争の狂気を表しているのだと思います。




※この狛犬も、戦争の記念に造られてます。




※狛犬の台座に「米国?抗記念」と刻まれています「?」ってなんていう字?



今、ウクライナでも兵士は身を挺して国を守る「英雄」として民衆から崇敬されています。戦争とは多かれ少なかれ国民をマインドコントロールしていくことのようです。そのような社会にしていくのは国家自体が直接行っていくのではなく、我が町の人々がそれを推進していくことに怖さを感じます。




※削平された前方部の西側は墳丘の残る”後円部”




※この階段で後円部に登って行きます。



後円部は、改変されているものの墳丘は残っており、前方部からの階段を登ると小さなお堂があり、中には観音様でしょうか、3体の小さな仏様が祀られています。

神仏習合の痕跡を残すこの古墳は、まさに近代日本の鎮魂のための丘になっているようにも見えなくはありません。

 

 

 

※後円部の墳頂には官能様?を祀るお堂があります。

 

 

 

※お堂の裏側(後円部の墳丘も削平されていますね)

 

 

 

※後円部には、古墳の石材が刺さるように立っています。

 

 

 

 

※お堂の中には、金色に輝く仏様が3体祀られています。

 

 


さて、「藤光寺古墳」を離れ、次に向かったのはここから北東に400mくらい行ったところにある「弁財天古墳(べんざいてんこふん)」です。サラスヴァティーというインドのヒンドゥー教の女神が仏教に取り込まれた際の名称ということだそうです。

日本では、財宝の神様として伝わり仏教や神道でも祀られるようになりました。

後世になり村人たちが古墳の石室内に弁財天を祀ったことから「弁財天古墳」と呼ばれるようになったとのことです。

 

 

 

※これが「弁財天古墳」です。

 

 

 

※「弁財天古墳」の登り口に古墳の説明板と石標があります。

 

 

 

この「弁財天古墳」は、現在は直径(長径)35m、短径27mの楕円形の形をしており、高さ7mの円墳ですが、もともとは前方後円部だったのではないかという説もあるようです。

 

 

 

※弁財天古墳が前方後円墳だったという説も分らんではない。

 

 

 

主体部は、厚さ3cm~10cmの安山岩の割石が小口積みとして築かれた横穴式石室で、その奥壁に組合せ式の「家形石棺」が置かれていたそうです。

石棺は、安山岩の板石を組み合わせた長さ1.8mの棺身に、縄掛け突起のある凝灰岩製の家形の蓋(ふた)がついています。

盗掘等により副葬品等が見つかっていないため築造時期については不明ですが、一般的には横穴式石室ということで6世紀ということになるようです。

 

 

 

※「弁財天古墳」の墳頂部には大木の切り株が・・・

 

 

 

※古墳の横穴部に弁財天が祀られています。

 

 

 

※祭壇の奥に石室があると思います。

 

 

 

しかし、私はこの板石の小口積みの横穴式石室は早い段階の石室だったように思います。

これまで九州内の横穴式石室に多くお会いしてきましたが、6世紀代の横穴式石室はそのほとんどが大きな石を使った石室構造をとっています。6世紀後半から7世紀初頭にかけての石室は、いわゆる「巨石古墳」といわれる巨石で造られることが多いのですが、小口積みの古墳は横穴式石室の中でも早い段階ではないかと推察します。

 

 

 

※石室内部の壁に使われている「板石」で祭壇を作っています。

 

 

 

※祠の前の床も、安山岩の板石が敷かれています、

 

 

 

初期段階の横穴式石室では福岡市の「鋤崎古墳」が有名ですが、やはり板石積みの石室ですし、同じ今宿古墳群の「丸隈山古墳」も美しい板石を積み重ねた石室で5世紀前半と築造と考えられています。

熊本市にある「千金甲古墳」も小口積みをした横穴式石室の装飾古墳ですが5世紀築造の横穴式石室です。

このように、横穴式石室の初期段階では、小口積みの石室が多いのが私の印象です。

単純な考えではありますが、この玉名市岱明町の「弁財天古墳」も、割り板石の小口積みの石室ということなので5世紀築造の横穴式石室と言えるのではないかと思いますが、皆さんどう思います??

 

最後にランチでこの日に訪れたお店を紹介します。

玉名市岱明町の北隣、熊本県荒尾市のカフェ「ZORO(ゾロ)」さんに伺いました。

オシャレて、今時のレストランにシニア世代の私たちも少し躊躇しましたが、思い切って入店しました。

 

 

 

※「手作りカフェレストランZORO」さんです。

 

 

 

さてメニューを見ようと思うとすると「メニュー」がBook形ではなく、カード形になっており、テーブルの上でバラバラに見ることができます。

 

 

 

※テーブル一杯にメニューが広がります。

 

 

 

※「お冷(水)」もオシャレ!

 

 

ちょっと斬新なスタイムに戸惑いながらも、注文する料理を決めることができました。

家内は、いつもの「ハンバーグランチ」、私は「リブロースランチ」を注文!

 

 

 

※ふんわり、おいしいハンバーグランチです。

 

 

 

どちらも。洒落た盛り付けで"映える"景色です。

リブロースは、ペレットで焼いて食べると、アツアツで柔らかくて、思わず「うまい!!」を連発してました。

家内も一緒に食べると家内も気に入って頂きました。

 

 

 

※私が注文の「リブロースランチ」

 

 

 

※ペレットで焼いていただく、リブステーキ美味しかったですよ!!

 

 

 

食後は、ブリュレ付きドリンクセットでゆったりとしたランチタイムになりました。

ごちそうさまでした。

 

 

 

※ブリュレって焼きプリン??

 

 

 

玉名市から国道208号線に沿って荒尾市に入ると左手にあります。

もし、近くに行くことがあったら行ってみたらいいですよ!!