こんにちは、スタルペスです。

 

熊本県の天草エリアは昔、「天草5人衆」と言われる国人領主がお互いに”しのぎ”を削っていました。

その5人衆の一人「天草氏」の居城が「河内浦城(かわちうらじょう)」です。

私たちは、天草市河浦町にある天然温泉「愛夢里(あむり)」の駐車場に向います。

「愛夢里」は天草市総合交流施設という”肩書”があり、宿泊もできる施設です。別のところには海上コテージもあり一度は泊まってみたい施設です。

この「愛夢里」の駐車場に、小さな六角形の建物があります。

 

 

 

※「愛夢里」の駐車場にある「河内浦城跡資料展示館」

 

 

 

「河内浦城跡資料展示館」と書かれています。中に入ると発掘調査された陶器や瓦などが展示されています。

この河内浦城は、少なくとも1337年(建武4年)には、あったことが古い記録(志岐文書)に書かれているそうです。

1337年というと後醍醐天皇が吉野に南朝(大覚寺統)を打ち立てた年です。

 

資料館では平成2年から平成12年まで3度にわたる調査で発掘された出土物が展示されています。

 

 

 

※扉には鍵はおらず誰でも自由に見学できるよです。

 

 

 

※茶褐色の色瓦は天草の陶石が混ぜられているそうです。

 

 

 

※染付の磁器は、中国の景徳鎮からの輸入品だったそうです。

 

 

 

中でも色瓦の解説を読んでいると、平成2年の調査で瓦が発見されたそうですが、場所が表土に近い場所だったこともあって、「中世の城に瓦ぶきはないだろう」と思い込み、後世の瓦だとの認識で気にも留めていなかったのだそうです。しかし、平成12年の第3次調査で堀切の跡から大量の色瓦が発見され、この瓦が築造当時の瓦であったとことが解り、研究者も驚く豪華な中世山城であったことがわかったそうです。

また、展示館では多くの陶磁器も発見され展示されています。染付や青磁・白磁の器の他、か「わらけ」と呼ばれる使い捨ての素焼きの器もたくさん出土しています。

 

 

 

※当時の様子を再現するかのように、城域は木製の城柵が造られています。

 

 

 

※河内浦城跡公園の案内図(右側が北です)

 

 

 

※城柵を作るのも大変だったと思います。

 

 

 

資料館を出ていよいよ丘の上の城跡に向います、現在は「河内浦城跡公園」として整備されていて、見学路に沿って見学ができます。

当時の城柵を再現した木製の柵が中世の山城の雰囲気を感じさせてくれるものとなっています。

「城門」を潜り石段を登ると、いよいよ見学路に入ります。

見学盧の足元を覗き込むと当時の城の防御施設である”竪堀”をいくつか確認することができます。

 

 

 

※城門をくくり、河内浦城の城域に入っていきます。

 

 

 

※木製の階段(遊歩道)が曲輪まで造られています。

 

 

 

※遊歩道の下に竪堀があるのも見学できます。

 

 

 

※遊歩道から竪堀を真下にみることができます。

 

 

 

素人の私には、山城の竪堀や堀切は草や木々が生えていて、元々の”地形”なのか人為的に掘った”堀”なのかよく判別することができませんが、この城の堀切はなんとなく「ここだろう」という場所が解るので、山城初心者には山城の良さを実感できる”おすすめのお城”のように思います。

 

 

 

※解説板に記載されていた「城跡の全体図」です。

 

 

 

※山頂のⅠ郭(本丸跡)

 

 

 

木製の階段歩道を登っていくと、「城跡広場」とされるところに到着します。

ここが、河内浦城の建物群があるところです。

本丸にあたるⅠ郭からは175個もの柱穴が発掘されており、5棟の建物が立てられていたことが解っています。

現在は、そのうちの3棟の柱位置が復元されており、往時をしのぶことができます。

 

 

 

※Ⅰ郭の建物跡を北側から写しました。

 

 

 

 

※南側の2棟分の柱を復元しています。建物は瓦ぶきの豪華なものでした。

 

 

 

※本丸(Ⅰ郭)を南側より北側に向けて写しました。

 

 

 

※説明板にあった「河内浦城」の想像図

 

 

 

この本丸跡から西南方向の尾根に、天草市のもう一つの城「下田城」が築かれていました。

この「河内浦城」と「下田城」を一つの城とみなす向きもありますが、現在では別々の城として区別されているようです。

 

 

 

※向こう側の山に「下田城」があります。

 

 

 

※町田川を挟み河内浦城と下田城の位置関係です(国土地理院の航空写真)

 

 

 

戦国期に日本にやってきたポルトガル人の「ルイス・フロイス」の著書「日本史」には、天草氏は領内に35の集落があり、4つの城があったと書かれており、その中で天草氏の居宅は河内浦にあったと書かれています。

そのことから、天草氏の城は「本渡城」「久玉城」「河内浦城」と「下田城」ということが読み取れます。

 

 

 

※2021年の大みそかに投稿した久玉城跡訪問時のブログ記事

 

 

 

そこで、せっかくですので町田川の対岸の「下田城跡」に行ってみることにしました。

現在は、「下田菅原神社」となっているようす。

 

 

 

※下田菅原神社(本殿はここから山を登って行きます)

 

 

 

※山道を登っていきますが、すでに息切れ状態です。

 

 

 

※まだまだ登って行きます。ゼイゼイ!!

 

 

 

※も少しで到着です。ゼイゼイ!!

 

 

 

昭和初期までは近くに五輪塔が26基と宝篋印塔(ほうきょういんとう)が3基あったそうです。その後は農地として開墾され5~6基程度しか残っていないとのことですが、この石塔群は天草氏の歴代墓所だったと考えられています。

河内浦城を自らの居城とし、下田城を守りの要としながらも先祖の墓所としたことは、少しだけ気持ちが解るようでもあります。

 

 

 

※ようやく、社殿が見えてきました。ゼイゼイ!

 

 

 

※下田菅原神社の社殿。ここに天草氏の下田城があったものと思います。

 

 

 

・・・・・・

 

 

さて、この日のランチですが、近くにある世界遺産の地にしたいと思います。

2018年に世界遺産に認定された「長崎と天草地方の潜伏キリシタン関連遺産」で指定された天草市の崎津集落です。

 

 

 

※対岸から写した崎津集落

 

 

 

※崎津教会に近づいていきます。

 

 

 

※江戸時代に「踏み絵」が行われた庄屋宅跡に建てられた天主堂

 

 

 

ブラタモリでも、2020年3月14日に「なぜキリシタンは250年も潜伏できた?」と題して江戸時代の隠れキリシタンについて紹介されています。

話が少しそれますが、実はこのブラタモリでは、この回で私の大好きな「林田アナウンサー」が最後の日となる卒業回でした。

 

 

 

※林田アナです(NHKホームページより)

 

 

林田アナウンサーは東京芸大音楽学部出身の異色のアナウンサーでしたが、ブラタモリではちょと戸惑いながらぎこちない仕草が新鮮に感じました。

今は、朝の顔としてニュース7のサブキャスタとして活躍していますが、残念ながら私は出勤時間となるのでお会いできていません。

 

 

・・・・・ということで、

世界遺産「崎津教会」の近くにある、漁港の民家を改装した小さなレストラン「シンフォニー」さんに伺いまし。

観光客も多いことから、空いているか心配でしたが開店早々に伺ったため入店できました。

「シンフォニー」さんは、パスタとピザのお店です。

 

 

 

※民家をお店にした「レストラン・シンフォニー」さんです。

 

 

 

※お店の入口と通路は狭く、民家だったことがよく分かります。

 

 

 

※緋扇貝の殻を147枚(21×7)貼られています。

 

 

 

※小さなテーブルですが清潔感のあるテーブルです。

 

 

 

店内には色とりどりの緋扇貝の殻が壁に貼られていたりして「港のレストラン」という雰囲気のお店です。

ランチは、お店一押しの「崎津ペスカトーレ」と「海鮮ピザ」を注文。

ペスカトーレとは、魚介をつかったトマトソースのパスタだそうです。

 

 

 

※お店の一押し「崎津ペスカトーレ」は、天草を象徴するパスタですね。

 

 

 

※海鮮ピザは家内と一緒に分け合って食べました。

 

 

 

※ランチセットには、デザートとコーヒーも付いています。

 

 

 

”おじさん”は、そんなおしゃれな名前は知りませんが、"これぞ!天草のパスタ”という美味しいパスタでした。

ピザも家内と分け合い頂きましたが、海鮮のパスタも”海の香り”のする天草を感じるものでした。

2度目の津崎も思い出深い訪問となりました。