こんにちは、スタルペスです。

秋が深まる中、先日ひさびさに宮崎県にドライブをしてきました。

目的地は、すでに何度か訪問している、ちょー有名な「西都原古墳群」です。

西都原古墳群は、菜の花と桜並木が有名ですが、今回は「コスモス畑と古墳群」をテーマとして訪問しました。

 

 

 

※西都原古墳群のコスモス

 

 

 

熊本市から高千穂経由で西都原古墳群に到着です。

 

まずは、西都原古墳群の中心部(ガイダンスセンタ)の駐車場に停めてコスモス畑に向いました。

視界すべてがコスモスの花で埋まっていて・・・とても綺麗です。

天気もよく、多くのお客さんが来ています。中にはシートで寝そべっている人達や家族でお弁当を食べている人もいて、秋を満喫しています。

 

 

 

※現地では満開のようでしたが写真に撮るとそうでもない。

 

 

 

我が家の2代目愛犬(2歳♀)は、初代愛犬(享年15歳♂)に比べて、歩くことが嫌いなのでコスモス畑に入っていくことができません。

前回、菜の花の時にここに来たときは先代愛犬でしたので、それはもう元気に菜の花畑の間を走り回っていました。

しかし、2代目は手前をちょこっと歩いたら、散歩は終了のようです。リードをもつ家内も少しがっかりのようです。

 

 

 

※散歩を嫌がる愛犬二世!

 

 

 

私は、コスモス畑の中にある「鬼の窟古墳(おにのいわやこふん)」にちょっとだけ見学に行くことにしました。

以前(5年前)も、このブログで紹介させていただいた「鬼の窟古墳」は正式には西都原第206号墳といい、西都原古墳群で最後の首長墓と言われています。

 

 

 

※コスモス畑の向うに「鬼の窟古墳」

 

 

 

※巨大な外堤が囲む「鬼の窟古墳(西都原206号墳)」

 

 

※4年以上前の「鬼の窟古墳」のブログ

  ↓↓↓↓↓↓↓↓

 

 

 

※「鬼の窟古墳」の正面玄関

 

 

 

※これが「鬼の窟古墳」の正式な姿!?

 

 

 

※墳丘は直径東西36.4m南北33.6mの2段築成葺石なしの円墳です。

 

 

 

西都原古墳群は、我が国でも最大規模の古墳群で国の特別史跡に指定されていることは、皆さんが知るところですが、通常の古墳群は同一の首長系の一族が数世代にわたって築かれていくものですが、ここ西都原古墳群は6つの首長系が同じ西都原台地の上に築いてきた古墳群とのことで、大変不思議な古墳群です。

 

 

 

※墳丘の周りには幅約10mの周溝と幅約10m高さ5.2mの外堤が巡っています。

 

 

 

※外堤の高さが異常に高い!お城の堤と堀のように外敵を防ぐ装置のよう。

 

 

 

西都原古墳群では、320基を超える高塚古墳が確認されており、それ以外にも横穴墓や地下式横穴墓もあり圧倒的な数の墳墓が同一台地上に築かれています。なかでも32基に及ぶ前方後円墳があり、最大のものは「男狭穂塚古墳」、「女狭穂塚古墳」で双方ともに176mの大きさを誇ります。

 

 

 

※墓道も長く石室入口に向います。

 

 

 

※羨道は長さ7.5m、幅1.8m、床は敷石がされています。

 

 

 

6人の首長たちは、西都原の台地にそれぞれ前方後円墳を築くのですが、6世紀後半に築かれた「鬼の窟古墳」の被葬者は首長であるものの前方後円墳は造らず、この不思議な形をした円墳を築くのです。

主体部は、近畿型の横穴式石室が築かれ巨石を用いて造られています。古くから開口しており副葬品等はほとんど残っていませんが僅かに見つかった副葬品から6世紀末から7世紀前半まで組合せ式木棺を用いた追葬が少なくとも3度行われているそうです。

 

 

 

※「鬼の岩窟古墳」は近畿型の石室です。

 

 

 

※玄室の様子、床は川原石が布かれています。石室の石材は砂岩です。

 

 

 

3世紀後期から7世紀前期にかけての長い期間に同一の墓域が使われつづけたのば大変に稀なこととのこと。

6人の首長たちは、どうして同じところに墳墓を作ることにしたのでしょうか?

宮崎県には、同じように複数首長が同一の墓域に墳墓を築く事例が多くありとのことです。

この首長たちのコミュニティーはどんな形だったのでしょうか?

 

 

 

※石室の壁は巨石の4段積みです。写真は左側の壁です。

 

 

 

※右側の壁です。玄室・羨道ともに3枚の天井石が架けられています。

 

 

 

前方後円墳を築くのはある意味、支配下におく人々に自分の権勢を見せつけるためのものだと思うのですが・・・

6つの部族の首長が同じ場所にお墓を作るということは、自分の勢力圏から遠く離れた場所にお墓(古墳)を造ったということなのでしょか?それとも、6人の首長はこの西都原台地を自身の土地として持っていたということでしょうか?

 

 

 

※外堤に人が歩いていますが、古墳の大きさが分かると思います。

 

 

 

※「鬼の岩窟古墳」の近くにある西都原205号墳、陪塚でしょうか?

 

 

 

もしも、後者だとしたら、の勢力圏は、これまで私が想像していたよりも、ずっと狭い範囲だったのかも知れません。

・・・

今でいうところの、町内会長さんだったのか?小学校区の区長さんレベルだったのか?

はたまた、市長さんクラスだったのか?私にはどうしてもはっきりとした「首長」のイメージがつきません。

たとえ、首長さんのなかで親分的な盟主的首長が存在したとしても、その足元の地盤はけっして強いものではなかったようにも思います。

西都原古墳群のように複数の首長が100mを超える前方後円墳を築ける力とは、いったいどんなものだったのか?

どなたか知っている方、教えてください!!

 

・・・・・

 

実は今回、ここに来た私の本当の目的は、まだ訪れたことがなかった「宮崎県立西都原考古博物館」に行くことでした。

今から、家内と愛犬を残して行ってきま~す。