こんにちは、スタルペスです。

 

昨年秋、紅葉が深まる熊本県南関町(なんかんまち)に行ってきました。

南関町は、福岡県と熊本県との県境にある町です。

既に奈良時代には大宰府から肥後に向かう官道に「大水駅(おおうつえき)」が置かれ、平安時代には「大津山関(おおつやませき)」と呼ばれた関所が設けられており、国境の関所として重要な役割を果たしてきたところです。

 

 

 

※国指定史跡 豊前街道南関御茶屋跡(手前が駐車場)

 

 

 

※御茶屋跡には、後ほど伺う予定です。

 

 

 

※駐車場の北側に”南関城跡”の説明板があります。

 

 

 

※ここから、南関城跡へ登っていきます。

 

 

 

さてこの日、私がここ南関町にきたのはいつもの古墳ではなく、かつて肥後国の北方を守るために築かれた南関城(なんかんじょう)の城跡を訪れるためです。

別名は「鷹ノ原城(たかのばるじょう)」というようです。

 

 

 

※11月23日(勤労感謝の日)は紅葉が最も綺麗な時期です。

 

 

 

※城跡に向かう小径は散策路として整備されています。

 

 

 

”南関”という地名が定着するのは明治時代(西南戦争)からなので、当時は”鷹ノ原城”と呼ぶのが正しいと思いますが、案内板なども”南関城”となっていますので、世の中に従順な私はあえて逆うことはせず”南関城”とさせて頂きます。

 

 

 

※一面の落ち葉を「サクッサクッ」と音を出しながら歩きます。

 

 

 

※城跡まで道案内の矢印があるので迷いません。

 

 

 

まずは、国指定史跡になっています「南関御茶屋跡」の駐車場に車を停めて城跡に向います。

登城口から赤く染まったモミジを愛でながら丘陵地を登っていきます。

 

 

 

※落ち葉の絨毯

 

 

 

※まだ、登っていきます。

 

 

 

入口近くには、城跡まで徒歩7分くらいを書かれています。階段と坂道をジグザクに登っていく散策道は、色づいた木々を縫うように登っていきます。

 

 

 

※いよいよ山道のようになりました。

 

 

 

※もう少し登っていきます。

 

 

 

少し、息が荒くなり、汗ばんできたときに、頂部に到着しました。

 

 

 

※これは城跡ではないような・・・・

 

 

 

※これはなんの施設でしょうか?

 

 

 

登り切ったところが城跡だと思ったのですが、西南戦争の官軍墓地があります。

「城ノ原官軍墓地(しろのはらかんぐんぼち)」は、西南戦争の激戦地のひとつ”高瀬の戦い”(玉名市)で亡くなられた官軍(政府軍)の死者77名を埋葬されています。

 

 

 

※この施設が「城ノ原官軍墓地」のようです。

 

 

 

※城ノ原官軍墓地です。

 

 

 

ここ、南関町は西南戦争では、官軍(政府軍)総督の有栖川宮熾仁親王(ありすがわのみやたるひとしんのう)が、大本営を置いたところで玉名・山鹿方面の指揮をとった地とのこと。町内にはほかにも「肥猪町官軍墓地(こえいまちかんぐんぼち)」に山鹿方面で戦死した官軍180名を埋葬した墓地もあります。

 

 

 

※墓石が綺麗に整列しています。

 

 

 

※高瀬(玉名市)の戦いで亡くなった将兵のお墓です。

 

 

 

熊本県下にはこのような官軍墓地が21箇所もあり、我が国最後の内戦の傷跡は今も県内各地に残ってます。

 

 

 

 

 

※城ノ原官軍墓地の向こう側に城跡が広がっています。

 

 

 

実はここ「城ノ原官軍墓地」のある場所は、南関城の本丸南側の一角に造られています。

南関城(鷹ノ原城)は、1600年に熊本城の支城として加藤清正により築かれましたが、その縄張りの規模は近世の宇土城や肥前名護屋城と同程度の規模であったと言われています。

 

 

 

※広大な広さの本丸平坦面

 

 

 

※本丸に立つ「南関城跡」の標柱

 

 

 

※本丸の北側にある謎の石(隅櫓の石でしょうか?)

 

 

 

※本丸の北側から南側(官軍墓地)を臨む

 

 

 

築城には清正自らが現地で縄張りの指揮をしたとのことで、この城の重要性とその清正の思い入れの強さが分かります。

 

 

 

※本丸北側の二の丸の石垣跡

 

 

 

※二の丸の遺構

 

 

 

※二の丸の破壊から免れた石垣

 

 

 

城主(城代)は、清正の家臣(家老)の加藤正次と丹波守正長が勤めましたが、1615年の一国一城令により廃城となってしまいます。

ちなみに、のちに加藤正次は俗にいう「牛方馬方騒動」による内紛により、幕府により流罪となり没落していきます。

 

 

 

※本丸の西側の一段低くなっている区画(堀の跡か?)

 

 

 

※本丸西側の堀跡

 

 

 

※南関御茶屋跡に展示していた南関城跡の地形図

 

 

 

1637年から翌年にかけて発生した「島原・天草の乱」で廃城となっていた島原の「原城」が一揆軍の拠点となったことから、この南関城もその後徹底的に破壊されたとのことです。

 

 

 

※三の丸と本丸との間の堀の石垣

 

 

 

※三の丸の石垣が発見されています。

 

 

 

※破壊された石垣を埋めた跡も発見されています。

 

 

 

平成11年の発掘調査では、本丸西側斜面に残存高さ7m、築石21段の石垣が発見されたのですが、空堀の底に破壊した石垣の石を敷き詰めるように並べて、その上から土をかぶせて隠した跡が発見されており、徹底的に破却したことが判っています。

 

 

 

※この南関城は、中世の山城ではなく近世の城郭ということが発掘で分かってきました。

 

 

 

ここ、肥後国は「島原・天草の乱」の当事国ですし、島原はここ南関町は有明海を挟んで目と鼻の先ですので幕府からの命令も特に厳しかったことだと想像できます。

 

 

さて、この日のランチを紹介します。

 

南関町で人気のそば屋さん「関庵」さんに伺いました。

関庵の”関”は、もちろん南関の”関”、近くに大津山があるので大津山の関の”関”だと思います。

 

 

 

※「いきいき村」の向か側にある「関庵」さん。

 

 

 

関庵さんに伺ったときは、お昼前というのにもう行列ができていました。

名前を書いて待つこと約15分ほど、私は車の中で待っていましたが家内はお店の外で、同じく待っていたご夫婦と楽しそうにお話をしています。

人見知りの私には、できない才能です。

・・・・

いよいよ入店!!

 

・・・・

 

小あがりに案内され、さっそく注文!

私は「おすすめランチ」

家内は、「ミニ天丼とそば」のセットメニューを注文!!

 

私は、寒い日でも蕎麦は冷たい蕎麦をたのみます。

前菜4種盛にミニ天ぷらがついています。

蕎麦は麺が締まってツルツルののど越しで、天ぷらはサクサク!!

言うことない文句なしの天ぷらそばです!!

 

 

 

※私の注文の「おすすめランチ」です

 

 

 

※そばののど越しは最高です、

 

 

 

家内はミニ天丼と暖かい蕎麦を注文。

店の外で順番を張っている間、冷たい風が吹いていて身体が冷えたので暖かい蕎麦にしたそうでいす。

 

 

 

※家内の注文の暖かい蕎麦とミニ天のセットです。

 

 

 

※暖かい蕎麦も、麺の喉越しは最高です。