こんにちは、スタルペスです。

 

昨年9月、佐賀県上峰町に伺いました。

目的は「都紀女加王墓(つきめかおうぼ、つきめかのみこのはか)」に伺うことです。

 

 

 

※「都紀女加王墓」入口です

 

 

 

「都紀女加(つきめか)」という方は、「先代旧事本記」では、第15代応神天皇のひ孫で、「筑志米多国造(ちくしめたのくにのみやつこ)」の始祖とされています。

筑紫の米多というのは、現在の佐賀県上峰町あたりだということなので、この上峰町を治めていた豪族のようです。

私は「都紀女加」という名前なので、てっきりお姫様と思っていましたが、どうもお姫様ではなかったようです。

 

 

 

※入口にはチェーンがありますが、遥拝所まで行きたいと思います。

 

 

 

あの神功皇后が三韓征伐の帰路、福岡県宇美町で生まれたのが「応神天皇」です。宇佐神宮を総本社とする全国4万4千社の八幡宮の主祭神「八幡神」もまた応神天皇です。

その応神天皇の第五皇子の「稚野毛二派皇子(わかぬけふたまたのみこ)」の孫が「都紀女加」と言われています。

この応神天皇の子である「稚野毛二派皇子」が継体天皇の高祖父ということですので、現在の天皇家の直系ということなるのだと思います。

 

 

 

※宮内庁管轄の陵墓「都紀女加王墓」です。

 

 

 

※応神天皇皇曾孫 都紀女加王墓と書かれています。

 

 

 

今回訪れた佐賀県上峰町の「都紀女加王墓」は、佐賀県で唯一の宮内庁の「陵墓」になっており墓域に入ることはできず神聖な場となっています。

皇族の陵墓ということですが、この陵墓の向かいにはなぜか”ラブホテル”があります。それも、かなり猥雑な建物です。

このGap(ギャップ)が日本らしいのかも知れません。

 

 

 

※鳥居の手前に石標が立てられています。

 

 

 

※「都紀女加王墓」の拝所ですが、墳丘の形が分かりません。

 

 

 

この「都紀女加王墓」の遺跡名は「上のびゅう塚古墳」という名称がつけられています。

5世紀築造の前方後円墳です。全長は49mで前方部が西に向いています。

墳丘表面からは、埴輪・葺石が見つかっているほか、墳丘の周囲には周溝が巡らされていることがわかっています。

 

 

 

※どこから見ても墳丘がはっきり分かりません。どちらが前方部でしょうか?

 

 

 

この「都紀女加王墓」こと「上のびゅう塚古墳」も含めて、「目達原古墳群(めたばるこふんぐん)」と呼びます。

王墓の隣には目達原古墳群公園があり5基の古墳が見学できます。

でも、この古墳”本物?”の古墳ではありません。

 

 

 

※陵墓の向かいにはラブホテルがあります。

 

 

 

戦争中に、旧陸軍がここ目達原に飛行場の建設を行います。その際、皇族の墓と言われていた「上のびゅう塚古墳」だけを残して、ほかの古墳はことごとく破壊してしまったからです。

その後、地元の人たちが、「都紀女加王墓(上のびゅう塚古墳)の隣に破壊された5つの古墳のミニチュアを復元・製作をしたものです。

 

 

 

※目達原古墳群公園の入口です。

 

 

 

平面積が実物の1/7で高さは、実際の1/4だそうです。

少し、高さがデフォルメされたミニチュア古墳です。

 

 

 

※記念碑の石は、実際の古墳の石室の石材を使っているそうです。

 

 

 

「大塚古墳は」全長55mの前方後円墳です(ここでは、55mの1/7の大きさですが・・)。

次にあるのは「古稲荷塚古墳」です。「古稲荷塚古墳」は本来は直径44mの大きな円墳ですが、ここでは1/7の大きさです。

横穴式石室があったそうですから、もしかしたら一番若い古墳なのかも知れません。

 

 

 

※奥から「大塚古墳」、「古稲荷塚古墳」、「稲荷塚古墳」

 

 

 

※手前が「稲荷塚古墳」、奥手前が円墳の「古稲荷塚古墳」、一番奥が「大塚古墳」

 

 

 

「稲荷塚古墳」は全長50mの前方後円墳で、前方部と後円部の2か所に横穴式石室があったそうです。

「塚山古墳」も「大塚古墳」とほぼ同じ54.5mの前方後円部です。「都紀女加王墓」より大きな古墳ということになります。

周溝や葺石はあったのでしょうか?埴輪はなかったのでしょうか?

 

 

 

※手前は「大塚古墳」の後円部だと思います。

 

 

 

※手前が「古稲荷塚古墳」で奥が「稲荷塚古墳」

 

 

 

最後に紹介する「瓢箪塚古墳」は、全長が27mと古墳群の中では一番小さい前方後円墳ですが箱式石棺が出土していることから竪穴式石室だったのではと想像がつきます。この古墳群の中では一番古い古墳なのかもしれません。

他にも「無名塚古墳」、「横田南古墳」等の古墳がこの目達原古墳群にはあったようです。

 

 

 

※これが、たぶん「塚山古墳」です。一番小さい瓢箪塚古墳は見逃してしまいました。

 

 

 

でも、このミニチュアの古墳は、ただの縮小版レプリカ古墳ではありません。

破壊・削平されてしまった古墳から引き継がれた被葬者の「魂」が入ってる古墳です。

このミニチュアの古墳を作るにあたって、霊璽を祀るとともに壊された古墳に副葬されていた遺物を箱に収めて埋納しているのだそうです。

目達原航空隊の飛行場となってしまい壊された5つの古墳たちは、地元の人たちの努力によって被葬者の「魂」が残されたと考えれば、僅かながらも救われた気持ちになります。

 

 

 

※春には古墳公園がつつじの色とりどりの花で着飾ることでしょう。

 

 

 

それは、もしかすれば、昭和18年(1943年)この古墳の跡地に作られた陸軍目達原飛行場が特攻隊の教育隊が置かれたこともその一因なのかも知れません。ここの航空隊で教育を受けた少年たちは、遠く海のかなた消えていき、彼らの「魂」がここに戻ってくることがなかったことから、壊してしまった古墳の「魂」を守ろうとしたのかも知れません。