こんにちは、スタルペスです。
6月に訪問した福岡県うきは市の「月岡古墳(つきのおかこふん)」を11月に再び訪れ吉井歴史民俗資料館の「古墳見学」に参加しました。
※月岡古墳後円部の登り口(6月訪問時)
※鳥居そばの古墳の案内板(6月訪問時)
前回のブログでも紹介したとおり、古墳見学の最初に訪問したのは、「日岡古墳(ひのおかこふん)」でした。
日岡古墳の装飾石室を満喫したあと、月岡古墳に徒歩で移動します。
日岡古墳と月岡古墳の間に、「若宮八幡宮」があるので神社の境内を横断しての見学となります。
厳密にいえば、この月岡古墳も若宮八幡宮の境内になります。
※若宮八幡宮の神門(6月訪問時)
※若宮八幡宮の拝殿(6月訪問時)
※若宮八幡宮の拝殿と本殿(6月訪問時)
月岡古墳は全長約80mありテラス部も含めると95mにもなる大型の前方後円部です。三重の周溝が巡られさており周溝まで含めた大きさは全長140m以上と推定されています。
高さは前方部で6m、後円部で7mとなり前方部を西に向けて築かれています。
墳丘の一部は壊されていますが、全体としてはよく形が残っている古墳だと思います。
※手前が前方部、中央が後円部(奥は神社裏の森)(6月訪問時)
※墳丘くびれ部から後円部(6月訪問時)
※後円部側北側斜面から前方部側を望む(6月訪問時)
※後円部墳頂から前方部を見る(6月訪問時)
この月岡古墳は、江戸時代(1805年)に後円部から竪穴式石室が発見され、中から多様な副葬品が出土されています。
この時の記録が、若宮八幡宮の宮司「安元大炊(やすもとおおい)」によって残されており、副葬品は代々安元家で大切に保管されていたことから、昭和36年(1961年)に国の重要文化財に指定されました。
※この用水路は昔の周溝の跡?(ちがうよね~)
※6月訪問時には田植えが終わったばかりでした。
その副葬品は、現在「吉井町歴史民俗資料館」に保管展示しており、先日伺った折に間近で見させていただきましたが、残念ながら写真撮影禁止ということで撮ることができませんでした。
金銅装眉庇付鉄冑×1、眉庇付鉄冑×7、金銅装臑当×1対、金銅製胡籙金具、金銅製鞍金具、金銅製帯金具、頸甲片、短甲片、木心鉄板張輪鐙×3、三角縁二神二獣鏡×1、獣形鏡×2、珠文鏡×1、鉄剣、鉄鏃が135以上、滑石製臼玉×33個、切妻型家形埴輪×1と多くの副葬品が国の重要文化財に指定されています。
※重要文化財「金銅装眉庇付鉄冑(こんどうそうまびさしつきかぶと)」
※金銅製帯金具(左)、金銅装脛当一対(右)
これら副葬品が一括で保管されていたことは、この古墳が若宮神社境内にあり宮司の安元家が代々にわたって大切に保管してくれたからであり、多くの古墳が盗掘にあい副葬品が流出し失ってきたことを思うと、奇跡的なことのように思います。
この副葬品の中で月岡古墳を代表するものが「金銅装眉庇付鉄冑(こんどうそうまびさしつきかぶと)」です。
この冑の他にも武具や武器が多く出土しています。軍事色の強い豪族の墓のように思います。
九州では、この地方を治めていた豪族は、的臣(いくはのおみ)の一族だと考えられています。
前回のブログで紹介した日岡古墳、塚堂古墳とここ月岡古墳の3つの前方後円墳の若宮古墳群は、この的臣一族の首長の墓ではないかと言われています。
※前方部の墳頂(6月訪問時)
※後円部墳頂近く(6月訪問時)
この、うきは市は2005年に「浮羽町」と「吉井町」が合併し「うきは市」として市制施行されましたが、歴史的には「的邑(いくはむら)」→「生葉郡(いくはぐん)」→「浮羽郡(うきはぐん)」→「うきは市」となっており、的臣に由来している地名だということがよくわかります。
※後円部の北側に石が集まっているところがありました。これって葺石?(6月訪問時)
今でも、”うきは市吉井町生葉(いくは)”いう地名が残っており、古代からの歴史を連綿と紡がれていることが分かります。
的臣は、葛城襲津彦(かつらぎのそちひこ)を始祖とする畿内の中央政権の豪族です。
しかし、古事記などの文献には、ここ筑後川上流域左岸が的臣の地域だという記述はまだ見つかっていないので、疑義を論じる意見もあります。
※月岡古墳遠景(手前が後円部)(6月訪問時)
しかし、的(いくは)氏が軍事氏族でありヤマト王権からたびび朝鮮半島に派遣されてきたこと、この月岡古墳が畿内古墳の特徴をよくもっていることなどから、的(いくは)氏がこの地域を治めていたことはあり得ることだと思います。
物部氏、大伴氏が九州で大きな勢力をもっていたように、的氏の一族がここの地で勢力をもっていたとしても不思議ではないように思います。
・・・・
さて、先日(11月第3週)に参加した、古墳見学のお話に戻します。
「日岡古墳」の石室を見学した後、若宮八幡宮の境内を横断して「月岡古墳」へと向かいます。
境内の樹木は、紅葉が真っ盛りでイチョウの木が黄色に染まっています。どんぐりが地面一面に落ちていて、石とは違う感触が足の裏に伝わってきます。
※法被を着たボランティアの方々に案内されて月岡古墳にやってきます。(11月訪問時)
※後円部に建っている「月読宮」(6月訪問時)
ボランティアの方々に案内されてのは、月岡古墳の後円部にある建物です。6月に月岡古墳を訪れた時は鳥居の扁額に「月読宮」と書かれていたので、てっきり神社の社殿とばかり思っていました。
※鳥居の扁額には「月読宮」と書かれています。(6月訪問時)
※月読宮の社殿(実は石棺の覆屋)(6月訪問時)
実はこの建物は、竪穴式石室の覆屋になっている建物のようです。「月読宮」の拝殿も兼ねているのか?石棺をご神体にしている神社なのか?は不明ですが、この建物の中に江戸時代に発見された「石棺」が保存されています。
※ボランティアの方が社殿のカギを開けて中にあがらせてもらいました(11月訪問時)
ボランティアの案内の方がカギを開けて頂き、私たちは靴を脱いで拝殿に上がらせていただきます。
中には、石棺が”でーん”と据えられています。
写真撮影がOKとのことで、何枚か撮らせていただきました。
※神棚の下に石棺が木枠で守られて鎮座しています(11月訪問時)
※石棺の蓋部はいくつかに割れていますが縄掛突起は確認できます(11月訪問時)
※やっぱり「長持形石棺」ですよね(11月訪問時)
※縄掛突起を接写(11月訪問時)
私も実物の「長持形石棺」はたぶん初めてだと思いますが、以前佐賀県唐津市の「谷口古墳」を訪れた際に、長持形石棺の複製を見たことがありますが、この縄掛突起の様子からも「長持形石棺」だと思います。
帰宅後に改めて調べてみると九州で「長持形石棺」が確認されているのは、やはり谷口古墳とここ月岡古墳の2例しかないそうです。
「長持形石棺」は畿内の大王クラスや有力豪族の首長に用いられる特別な石棺です。
地方でも中央氏族系の有力者でなければ使えない形態だと考えられます。
まさに、この「月岡古墳」の被葬者は、やはりヤマトの中央政権の豪族のひとり、的臣の流れをくむ首長の墓に違いないのではと思います。
・・・・おまけ
この、若宮八幡宮の境内には、面白いものがいろいろとあります。
まずは、「王将」と彫られた石碑があります。
「王将」といえば、「ぎょうざの王将」
・・・・ではなく 「村田英雄」!!
ここ、うきは市吉井町が生誕地だそうです。
「村田英雄」といえば佐賀県というイメージですが、産まれたのはこの神社のすぐ近くだそうです。
ボランティアの方が、「あそこの家です」と教えてくれました。
※村田英雄の生誕記念碑
※あの矢印の家が村田英雄の生誕地だそうです。(11月訪問時)
そうそう、古墳見学のために吉井町歴史民俗資料館に行った際に、「タモリ」のポスターが張ってあったので、家内が学芸員の方にお聞きしたところ・・・・
タモリの奥さんのご実家がここ「うきは市吉井町」だそうです。しかも、うきは市観光の中心地の白壁の街並みにその実家が今もあるようで、タモリもたびたび訪れていたとのことです。
※ブラタモリで人気のタモリ(奥さんはうきは市出身)
・・・・・
学芸員の女性は「奥様の実家なので吉井町でブラタモリの撮影を絶対にしてほし~い!!」と言っていました。
・・・・・
この、若宮八幡宮の境内には文人の石碑が多く建っています。
そのいくつかを紹介したいと思います。
まずは、下の写真は「高浜虚子」の句碑。
「粧(よそお)へる 筑紫野見に 杖曳かん」という句が書かれています。
※高浜虚子の句碑
下の写真は、「中村 田人」という方(私は知らない方です)の句碑です。
「月の岡日の岡古墳 梅さぐる」
・・・と書かれています。
※中村田人さんの句碑です。
下の写真の句碑は・・・
「小原 青々子」さんの句碑です(すみません・・・この方もよく知りません)
「古墳の絵 貫く月日 地虫出づ」
おぉ~ 月日 と 月岡古墳と日岡古墳を掛けているのかぁ~
※小原青々子さんの句碑
最後に、若宮八幡宮の狛犬を紹介します。
めずらしい、青銅製の狛犬です。
江戸時代の吉井町の豪商「藤江伴右衛門」が1845年(弘化2年)に寄進した狛犬です。
筑前博多の平井平次郎の制作で、胴部には日田の漢学者「広瀬淡窓」の撰文が書かれているそうです。
広瀬淡窓の学塾「咸宜園」では高野長英や大村益次郎など多くの門弟をもっていた、儒学者・教育者です。
※阿形
※吽形
おまけ・・・のおまけ・・・・
若宮八幡宮で散歩をする愛犬(ミニチュアダックス)です。
※「紡(つむぎ)」♀️1歳です。
動き回るので、正面から写真がとれまんでした。



































