こんにちは、スタルペスです。
今日は生憎の雨日和、古墳巡りには諦めなければなりませんが休日のドライブは行きたいと思います。
雨の日の目的地は、もちろん屋内です。
今回は、熊本県小国町にある「北里柴三郎記念館」にしたいと思います。
※北里柴三郎記念館
現在、NHKの大河ドラマ「青天を衝け」の主人公「渋沢栄一」が2024年からの新一万円札で注目されていますが、実は同じく新千円札になるのは「北里柴三郎」なので、もう一度、熊本県の偉人「北里柴三郎」を知っておこうという意味も含めて再訪することとしました。
※北里柴三郎の胸像
※北里柴三郎の胸像(全体)
北里柴三郎は嘉永5年(1851年)にここ熊本県小国町(肥後国小国村)で庄屋の支流の家の長男として生まれます。
※生家の一部(両親を東京に呼び寄せたため二間を残して壊したそうです)
現在ここには、生家の他にも大正5年に建てられた貴賓館が保存されています。
また、記念館として北里柴三郎の遺品などを展示している建物は大正4年に柴三郎が郷里の青少年のために寄贈した図書館「北里文庫」の建物を利用したものです。
※北里文庫(博士は当時一万円を投じて郷里の子供たちに図書館を贈りました。)
※北里文庫は現在記念館の資料展示室になっています。
北里柴三郎は、「日本の細菌学の父」と呼ばれペスト菌の発見や破傷風の治療法開発など世界的にも輝かしい成果を立てた医学者で研究者であり教育者でもあります。
北里はこの生家で父「惟保(これのぶ)」と母「貞(てい)」との間で厳しく育てられ8歳にして親戚の家に預けられ四書五経を学び、厳しい躾を受けさせられます。
その後、熊本医学校(熊本大学医学部)で学びのちに「東京医学校(東京大学医学部)」に学びます。
東京大学ではたびたび教授の論文に反論を行い何度も留年したそうですので、あまり要領のいい学生では無かったようです。
※貴賓館(北里文庫と同時期に建てられました。来客を招待する建物です)
その後、東京医学校入学時に同期だった「緒方正規」の計らいでドイツのベルリン大学に留学をします。
同期と言っても北里は何度も留年をしているので、緒方は上司になるので微妙な心情だったと思います。
※貴賓館1階の縁側(ここでのんびり過ごすのもいいかも・・・)
留学先のドイツのベルリン大学では「近代細菌学の父と言われるあの有名な「コッホ」に師事し、大きな業績を上げることになります。
明治22年(1889年)には、世界で初めて破傷風菌の純粋培養法を確立し破傷風菌の抽出に成功します。また血清療法という菌をすこしづつ注射しながら血清中に抗体を生み出す画期的な手法を開発しました。
※貴賓館の2階から生家を臨みます。
北里のベルリン留学を後押ししてくれた東大教授の「緒方正規」が脚気(かっけ)の原因は細菌だという説を発表したのに対して、北里は脚気の原因は細菌ではないと反論したことにより、緒方正規からは「恩知らず」と罵られ、東大と対立していくことになります。
当時、東大と敵対すると日本では研究をできるところはなく研究者生命の危機に陥ります。
※貴賓館の二階から銅像を臨みます。
そんな北里の窮地を救ったのが「福沢諭吉」でした。
明治25年(1892年)、福沢は北里のために資金を投じ、東京芝に「私立伝染病研究所」を設立します。
その後、芝の研究所が手狭になったので愛宕町の内務省の用地を払い下げてもらい研究所を移転します。
しかし、ここでも東大が北里の研究を妨害してくるのでした。
東大は「北里の研究所は大変危険な研究をしていて人体に有害」との喧伝をし地域住民も含めた反対運動を起こします。
※博士夫妻お手植えの小国杉
途方に暮れる北里に対して、またもや福沢諭吉が手を差し伸べます。
福沢は次男の捨次郎をこの愛宕町の研究所の近くに住まわせます。福沢は「北里の研究は安全です。なぜなら私の次男もこの研究所近くに住んでいるが何の問題もない」と北里を支援します。
明治32年(1894年)、当時香港でペストが大流行をします。内務省は北里と東大教授の青山胤通を香港に派遣します。ここで北里はペスト菌を発見するという大きな業績を上げて帰国します。
一方、東大から派遣されて青山胤通はペストに罹ってしまい、何の業績も上げられないまま帰国するハメになります。
作家であり医者である「森鴎外(森林太郎)」は、この「青山胤通」の友人だったため、森鴎外は北里の発見したペスト菌はニセモノであると喧伝します。
※書庫(小国郷の伝統的蔵造り「置屋根式」の蔵です)
加えて、北里の「伝染病研究所」の所管を内務省から東大の支配下に置くとの方針を発表されるとともに、あの「青山胤通」が東大総長になるということになり、北里は研究所を去る決意をします。
伝染病研究所を去った北里は、自らの私費を投じ「北里伝染病研究所」を立ち上げます.。現在の「北里大学」の前身であるこの研究所で北里は狂犬病、インフルエンザ、赤痢、発疹チフス等の血清治療開発に精力的に取り組みます。
※書庫と北里文庫は渡り廊下で繋がっています。
福沢諭吉の死後、慶応義塾大学に医学部を開設する許可がおりた際に、北里は自ら進んで医学部の学長に無報酬でなることになります。また北里研究所からも優秀な教授陣を慶応義塾大学に送り込むことをします。
ここ、北里柴三郎記念館のある熊本県小国町は、福沢諭吉の出身地である大分県とは県境を接する地でもあり、県域地図では大分県に大きく食い込んでいるようにも見える土地です。
※福沢諭吉
私も福沢諭吉と同じ大分県中津市の出身ですが、熊本から実家に帰る際はよくこの小国町北里の地を経由して帰省をしていました。
ほぼ同郷とも言っていいものだと思います。福沢諭吉も北里柴三郎も同じ九州人としての血流が流れていたのだと思います。
・・・
さて、今回のランチは北里柴三郎記念館の隣にある「北里バラン」さんのレストランで昼食をとることにします。
ここは、「学びやの里」として、北里柴三郎が提唱する「学習と交流」を実践する施設として小国町が北里研究所と北里大学の協力を得て人づくりの場として作った施設です。
研修宿泊施設の「木魂館」を中心にキャンプ場や温泉施設もある複合施設です。
ここ゛「北里バラン」は、食と健康の交流館として1994年に造られた施設です。
※「北里バラン」さんです。(雨の日なので暗い写真になってしまいました)
では早速入店してみます。
お昼前だったので、まだお客様は少なく我々の他には1組だけのようです。
メニューに”30食限定「あか牛焼肉定食」”と書いています。
家内と目と目を合わせ「あか牛焼肉定食」に即決です。
※「30食限定あか牛焼肉定食」です。
※ガスコンロで焼いて食べる焼肉です(懐かしい)
肥後赤牛、柔らかくおいしく頂きました。
満腹です。ごちそう様でした。