こんにちは。スタルペスです。

 

小城公園(茶筅塚古墳)に向かって車を走らせていると、右側に竪穴住居が数棟建ってる遺跡公園が目に入りました。

今回の小城市の古墳巡りの目的ではありませんでしたが・・・

気になるので、茶筅塚古墳への訪問のあと予定を変更して、この遺跡に向かうこととしました。

 

遺跡の名称は「土生遺跡(はぶいせき)」です。

国の史跡に指定されていおり、重要な遺跡のようです。

 

 

 

※土生遺跡の復元された竪穴住居

 

 

 

駐車場に車を停め、陶器で作られた説明板を読んでみると、弥生時代中期前半に盛期を迎える「農耕集落遺跡」だそうです。

 

 

 

※佐賀県の遺跡の説明板はすべて陶器で作られています(佐賀県ならではです)

 

 

 

昭和46年に炭鉱鉱害による地盤沈下の復旧工事の最中、大量の土器片や農耕具などがザックザックと出てきて、足の踏み場もないほどだったそうです。

 

工事会社は工事を中止して、別の離れた工区を先に工事することにしたところ、ここからも土器や建物の木材などが、ザックザックと出てきて、足の踏み場もないほどだったそうです。

 

そこでこの遺跡が広大な範囲に及んでいる遺跡だということが分かり本格的な調査となったそうです。

 

 

 

※高床倉庫と竪穴住居

 

 

 

※高床倉庫(中には入れませんでした)

 

 

九州では唐津市の菜畑遺跡や福岡市の板付遺跡に代表される縄文時代晩期の水田遺構により早くから稲作文化が伝わってきたことが分かっています。

 

まだまだ初期の稲作の時代に大型の集落跡が発見されたことはたいへん重要で貴重な遺跡だということです。

とくに、ここ「土生遺跡」が国史跡に指定された理由のひとつが出土した大量に出土した農具です。

 

 

 

※土生遺跡から出土した「踏み鋤(ふみすき)」(HPより)

 

 

 

 

※出土した様々な木製農具(賀県文化財報告書第25集「土生・久蘇遺跡」)

 

 

 

初期の稲作段階において、農具が当時としては完成されたものであり、このことは自らが創意工夫して作ったものではなく、誰からか教えられて作ったものであることが分かりました。

 

では、いったい誰から教えてもらったのか?

ということですが、この遺跡から大量に出土した土器からその答えが分かっているそうです。

 

朝鮮式無文土器が大量に見つかっていることことから、この集落は朝鮮半島と密接な交流があったことが分かりました。

 

 

 

※土生遺跡から出土した「朝鮮式無文土器」(HPより)

 

 

 

この遺跡からは、「稲作は朝鮮半島から伝わった」という根拠にもなっているものだと思います。

 

集落からは、高床倉庫ゃ井戸の跡、青銅器を鋳造した跡も発見されており、集落全体で稲作をしていたことが分かる貴重な遺跡となっています。

 

 

 

※「弥生っこ広場」と名付けられた広場から集落を臨む

 

 

 

稲作伝播については、朝鮮半島からの伝播という従来からの考え方の他に、中国大陸から伝播したという説もありますがいったいどこから伝わってきたのでしょうか?